2歴代誌35:16-27、1ペテロ5:6

“神の口から出た人のことば”  内田耕治師

 

アッシリヤを滅ぼしたバビロンと戦うためにエジプト軍は南王国の領土を通ってカルケミシュに向かっていたが南王国を攻めるつもりはなかった。ところが、南王国のヨシヤ王はエジプト軍を迎え撃って戦死した。彼の死によって南王国はエジプトに多額の賠償金を支払い、次の王はエジプトの意向にかなうエホヤキムとされ、エジプトの属国となった。その後、エジプトに勝利したバビロンが勢力を広げると、今度は南王国はバビロンの属国になり、次のゼデキヤ王のとき滅ぼされた。ヨシヤの死以来、南王国は坂を転がり落ちるように滅亡に向かったのである。

なぜヨシヤ王がエジプト軍に戦いを挑んだのか聖書に書いてないが、ヨシヤの判断は誤りだった。“主の目にかなうヨシヤ王なのにどうしてそんなことを”と思いたくなるが、これが偽りのない人間の現実である。確かに彼は宗教改革を上手くやり遂げたが、それが高ぶりを生み出し判断を誤らせたかもしれない。彼自身もその誤りに気づいていた。それがかつて北王国の悪名高いアハブと同じように変装して戦いに臨むという王様らしからぬ行動に現れている。彼は死をもって誤った判断の責任を取ったのである。

けれども、神はそんなヨシヤを最後まで見捨てずエジプトの王ネコを通してみことばを与えていた。残念ながらヨシヤは敵のネコに対して謙遜になれず、そのことばを聞かずに死んでしまったが、神が最後までヨシヤに働きかけたことを忘れてはならない。私達もよく調べず考えず祈らないで思い込みで間違った判断をすることがあるが、ヨシヤの場合と同じように神はそんな私達を見捨てず、私達の間違いを正すために聖書だけでなく人のことばで語りかけてくる。

そんな時、ヨシヤの真似をしないで人の口から出た神のことばを聞くべきだ。そうすれば、私達は間違いに陥らないで正しく適切な歩みが出来る。そのために大事なことは、どんな人のことばでも聞くことができる謙遜さを持つことだ。伝道者の書9章である小さな町に大王が攻めて来て包囲してその町は危機に陥ったが貧しい1人の人の知恵によってその町は救われたと書いてある。「貧しい人の知恵が用いられた」どんな人でも正しく適切な知恵あることを語るなら、その人の地位の低さや貧しさや無名さに関係なく耳を傾けることができる謙遜さを教えている。その謙遜さは主がその人を遣わされたと信じて主の前にへりくだることから生まれる。

私達は地位かお金か名声がある人の言うことをよく聞くが、それらがない人からは、たとえその人が良いことを言っても聞かないとしたら、地位やお金や名声に対してへりくだるが神の前にはへりくだっていないことになる。それは変なことではないか。「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます」確かにヨシヤは素晴らしい信仰者であるが、素晴らしい信仰者も間違いは犯す。ヨシヤがネコのことばを聞かないで戦ったことは私達にとって反面教師だ。神の前にへりくだって神の口から出た人のことばを聞いて主の前に正しく適切な歩みをしていきましょう。