申命記18:15-22、ヨハネ5:45-47
“同胞から来る1人の預言者” 内田耕治師
「あなたの同胞の中から私のような1人の預言者をあなたのために起こされる。」私とはモーセだ。イスラエル人はメシヤをダビデの子孫だけでなくモーセのような預言者と信じて待ち望んでいた。その証拠が新約聖書にある。
使徒の働き3章でペテロは申命記18:15のみことばをそのまま引用して、“だから十字架にかけられて復活したイエス様はメシヤです”と語り、ヨハネ4章でモーセ五書だけを聖典とするサマリヤ人のある女が「私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っている」のメシヤとはモーセ五書の1つである申命記18章が示すモーセのような預言者である。さらにイエス様ご自身がヨハネ5章で申命記18:15を根拠に「モーセが書いたのはわたしのことだ」と語った。
モーセのようなとはモーセと類似点があることだ。モーセもイエス様も生後すぐに命を狙われた。モーセは燃える柴を見て神の声を聞いてエジプトに行き、イエス様はヨハネからバプテスマを授けられて聖霊を注がれ神の声を聞いて福音を伝え始めたという転換点が両者にある。モーセはエジプトの権力者であるファラオと対決し、イエス様は宗教的権威のパリサイ人や律法学者と対決した。
モーセの場合、過越の子羊の血によってイスラエル人は守られ、子羊の血がないエジプト人は初子が死に、泣き叫びが起こり、頑なだったファラオがようやくイスラエル人を解放した。イエス様の場合、十字架で流されたその血によって救いの道を開くことができた。両者とも血に大きな役割がある。
けれども違う所がある。モーセは子羊の血を流したがイエス様はご自分の血を流した。モーセがイスラエル人を奴隷から解放したのは社会的な抑圧からの解放だ。イエス様が私達を罪の奴隷から解放したことは霊的な解放である。モーセは解放した民を約束の地カナンに導くことを目標とし、イエス様は私達を永遠の御国に導くことを目標とする。地上のカナンと天の御国では大違いだ。
モーセはシナイ山の麓で偶像礼拝の罪を犯した民の赦しを願って「あなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください」と自分を捨てる覚悟を示したが、主はそうさせなかった。けれどもイエス様は初めから自分の十字架を予告し、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」といのちを捨てる覚悟を示し、実際に十字架にかかり、そのいのちを捨ててくださった。自分を捨てる覚悟を示すことは大事だが、実際に捨てることはもっと大きなことだ。
イエス様がモーセのような預言者であるとは、類似点がありながらモーセよりも遥かに偉大で根源的な救いをもたらすメシヤだということだ。私達はイエスキリストを信じていのちを得て、イエスキリストを宣べ伝えている。ユダヤ人が反発したように、今も反発したり無視したりする人達がいる。けれども私達は諦めないでキリストの福音を宣べ伝えている。もうじきクリスマスだが、私達のためにいのちを捨ててくださったイエスキリストの誕生を、今年も心からお祝いしよう。