ルカ2:1-7,ミカ5:2

「イエスは神の子、家畜小屋で生まれた王」 内田耕治師

 

メリークリスマス!イエスキリストの誕生をほめたたえます。イエス様が生まれて2020年が経ちました。私達は生きている人の誕生日をお祝いしますが、死んでいなくなった人の誕生日はお祝いしません。けれども、イエス様はいなくなってからも人々はその誕生をお祝いします。しかも、そのお祝いが2020年間も続いています。そこまで心に留められ愛されるお方はイエス様以外に、どこにもいません。だからイエス様はすべての人の救い主だなと思います。

ところで、そのようなイエス様はその誕生よりももっと昔から、生まれることが予告されていました。それを聖書では預言と言いますが、イエス様は預言の成就として生まれてきました。そして預言のことも考えると、イエス様の誕生がどういうものかがよく分かります。やがて救い主が来ることを語る預言は旧約聖書にたくさんありますが、その中で代表的なイザヤ9:1-7を交読で読みました。それはイエス様が生まれる700年ほど前に預言者イザヤに与えられたものですが、後に来られたイエスキリストのことを預言しています。

まずイエス様は生まれたのはイスラエル南部のベツレヘムですが、育ったのはイスラエル北部ガリラヤのナザレという小さい町です。そして30歳になって同じガリラヤで「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って公に活動を始めました。イザヤ9:1-2「――異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいる者たちの上に光が輝く」はそのことを預言しています。

またイエス様は特別な王様として生まれることを預言しています。特別とは、やがて死んでいなくなるこの世の王ではなく、とこしえに続く神の国を治める王だということです。イザヤ9:6-7「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、――」の中でまず「主権は増し加わり」を読むと、イエス様は普通の人ではなくて王であることがわかります。

「その平和は限りない」「さばきと正義によって堅く立つ」「今よりとこしえまで」は、不正や争いがあり、平和でなく、滅びるこの世の国ではない、永遠の神の国を表し、イエス様は永遠の神の国の王になることが分かります。大事な点は「ダビデの王座に就いて」です。イスラエル人はメシヤとはダビデの子孫として来るものだと信じていました。その信仰がここにも現れていてイエス様はダビデの子孫である王として来られることが預言されています。

けれども、2020年前イエス様が来られたとき、王様らしいところはまったくなく、しもべのようにして生まれました。たとえば、皇帝アウグストゥスが出した住民登録の勅令で、たくさんの人達が自分の一族が住む町に行って自分の家族の名前を登録することになりました。現在なら住民登録は、それぞれが住んでいる市町村で行うものですが、ユダヤ人はそれぞれの一族でまとまり、系図まで作って先祖とのつながりを大事にする社会だったのでローマの皇帝はそのあり方を尊重して、人々はそうすることになり、ヨセフもそれに従いました。ヨセフは当時、イスラエル北部ガリラヤのナザレという町に住んでいましたが、彼の一族は南部のベツレヘムに住んでいました。だから彼はベツレヘムに行って家族の名前を登録することになりました。それで身重になった妻のマリヤを連れてベツレヘムに行きました。そして大変な思いをしてベツレヘムに着きました。けれども、同じようにして住民登録に来た人々で宿屋はどこもいっぱいでことごとく断られて泊めてくれる所がありません。その前にどうして親戚のだれかが泊めてやらなかったのか?と思いますが、もしかしたらマリヤが結婚前に身ごもったことで一族から拒否されたのかもしれませんが、マリヤの出産が近いのに泊まる所がなくて困っていました。

そんなとき、だれかが“家畜小屋なら開いているよ”と声をかけてくれたので彼らは家畜小屋に泊まり、そこでイエス様を産むことになり、生まれたイエス様は飼葉桶に寝かされました。両親以外にイエス様が生まれたことを喜ぶ人はだれもいないし、気にかける人はだれもいません。ひっそりとした誕生です。だからイエス様は王というよりも、むしろ、しもべのようにして生まれてきたのです。その後もイエス様は父ヨセフの大工を引き継いで社会の中では低い身分で生活し、30歳になってからは神の国の福音を宣べ伝える生活をしましたが、迫害されながら貧しい生活をし、最後に人類の罪の身代わりとして十字架にかけられました。だからイエス様は家畜小屋に生まれたというあり方が生涯続きました。

けれども、みことばの成就という視点で見ると、別のことが見えて来ます。先程言いましたようにメシヤはダビデの子孫として来ることが神のご計画です。だから、そのご計画を明確な形で実現するためにすべての物事は進行していきました。

まずイエス様はマリヤが聖霊によって身ごもるという超自然的なし方で生まれました。だから血のつながりではイエス様はヨセフの子ではありません。またヨセフがダビデの子孫ですからヨセフの子でなければ、イエス様はダビデの子孫ではありません。イエス様がダビデの子孫であるとは、まずヨセフが夢で聞いた御使いの知らせに従ってマリヤのお腹にいたイエス様を自分の子であると認知したことによります。普通1人の女性が産んだ子を産ませた男性が自分の子であると認知することで父と子の関係が成立します。もし認知しなければ、父と子の関係はできません。ヨセフが認知しなければイエス様はヨセフの子ではないし、ダビデの子孫にはなりません。ヨセフは一時、マリヤを内密に離縁してマリヤのお腹の子を認知しないことを考えていました。だから、ヨセフが認知したことは大事なことです。

またヨセフは住民登録のためにベツレヘムに行かされることによってイエス様を家族の一員として届けました。つまり認知したイエス様を正式に自分の子として登録しました。今で言うと、出生届ですが、それによってイエス様は正式にベツレヘムで生まれたダビデの子孫になりました。その結果、ミカ5:2の「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている」という預言が成就しました。この預言が成就して神のご計画が実現するために、皇帝アウグストゥスの勅令は用いられました。なぜなら、アウグストゥスが住民登録の勅令を出さなければヨセフはわざわざ遠いベツレヘムに行くことはなかったからです。勅令が出たからこそ彼らはベツレヘムに向かいました。だからアウグストゥスは住民登録の勅令を出すことで神のご計画を実現するために奉仕したことになりました。ヨセフやマリヤが信じる神を信じていなかったアウグストゥスは神に奉仕したつもりは全くありません。彼が考えていたことは、正確な人口を把握して少しでも多くの税金を取り立てるという非常に世俗的なことでした。

けれども、神は、神を信じないアウグストゥスに働いて住民登録の勅令を出させて神のご計画のために奉仕させました。すなわち神は皇帝アウグストゥスをも支配し、彼は知らないうちに神のご計画のために奉仕する神のしもべになりました。アウグストゥスとはどんな人物か?彼は若いときオクタビアヌスという名前で、ローマ帝国で最初に皇帝になった人物です。ローマが内乱で分裂しかかったときに国をまとめて平和と繁栄をもたらした偉大な政治家で、人々は彼を神と崇め、彼も人々に神と崇めさせたこの世的に偉大な王でした。

けれども聖書の視点から見ると、本当の王は家畜小屋に生まれたイエス様であり、アウグストゥスはイエス様がダビデの子孫として登場するための道筋を敷いた1人のしもべなのです。たとえて言うと、ヨセフは先の王であり、マリヤは先の王の王妃で、アウグストゥスは王子が無事に生まれる場所を準備した王の家来なのです。アウグストゥスは言いましたように当時、人々に自分を拝ませようとしました。しかし、拝むべきお方はアウグストゥスではなく、家畜小屋に生まれたイエス様なのです。またこの箇所は滅びゆくこの世の国と、永遠の神の国を隠れた形で描いています。アウグストゥスが治めたローマ帝国は地中海を囲んでヨーロッパ、アジア、北アフリカにまたがる大帝国となり、比較的長く続きましたが、ずいぶん昔に滅んで今はありません。所詮、この世の国は一時期栄えても滅びゆくものです。

けれども、イエス様が語り、確立し王となる神の国は永遠の王国です。そして「時が満ち、神の国が近づいた。――」とイエス様が言われたように、今も神の国は私達の身近なところに来ています。私達は神の国に入るためにこの世の国を出る必要はありません。イエスキリストを信じることを通してこの世の国にそのまま属しながら神の国にも属することができるのです。

だからイエスキリストは永遠の神の国に通じる道です。クリスマスとは、人類の罪の身代わりとして十字架にかかることでその道を確立し、そして神の国の王となられたイエスキリストが聖書の預言通りに来られたことをお祝いする時です。今年もイエスキリストのご降誕をお祝いしましょう。