マタイ2:1-18

“あなたの将来は望みがある”  内田耕治師

 

東方の博士達は、ユダヤ人の王として生まれた方を拝むためにエルサレムに来たが、ヘロデ王はユダヤ人の王とは自分の王位を狙う奴だと思い殺そうと考えた。その王はどこで生まれるのか祭司長や律法学者に問うと、彼らはユダヤのベツレヘムと答えた。ヘロデは博士達を利用してその王の居場所を突き止めようと彼らをベツレヘムに行かせた。彼らは星に導かれて母マリアと幼子のいる家を見つけ、幼子を礼拝し、贈り物を献げた。

博士達は夢で“ヘロデの所にもどるな”とみ告げを受けたので別の道で自分の国に帰り、父ヨセフも夢で“エジプトに逃げなさい、ヘロデが幼子の命を狙っている”とみ告げを受けたので夜の内に家族一緒にエジプトに逃げた。一方ヘロデは博士達に騙されたと激怒し、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を虐殺した。ヘロデはもともと良い王だったのに長年、王であり続けることで猜疑心と残虐性を肥え太らせ蛮行を行った。エレミヤ31:15「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。――」が成就した。

どうしてイエス様の代わりに関係のない幼子達がそんな目に遭うのか?分からないが、イエス様も後で何の罪もないのに殺された。イエス様が十字架にかかるとき、母マリアや弟子達は悲しみ嘆き、愛する子イエスを十字架にかけざるを得なかった父なる神も悲しみ嘆いた。けれどもイエス様の十字架で救いの道が開かれた。悲しみ嘆きは希望に変わったのである。同じようにエレミヤ31章の「ラマで声が聞こえる。――」の後は希望に変わる。「あなたの将来に望みがある」

その希望とは何か。神から離れて行った私達が神に立ち返ることだ。神は、離れて行った私達の悲しみや嘆きを聞いている。「私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ、あなたは私の神だからです。――」これが私達の悲しみ嘆きである。神はそれを何とか聞こうと耳をそばだてている。どうしてか?神は離れて行った者達を見捨てず、ますます愛するからだ。「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起すようになる。」

親をてこずらせた子供ほど親はその子をかわいいと思うようになる。神も同じで神に背いて離れた私達を心配して責め戒めるが、そうすればするほど寝ても覚めても私達のことを思い起こし、ますます愛するようになる。その愛によって私達はキリストを通して神に立ち返った。だから「ラマで声が聞こえる。――」はやがて人類の罪のために十字架にかかるイエスキリストの受難を予告し神の愛を表すものである。

私達はヘロデを通して人間の邪悪な面を見せつけられ、私達にも同じものがあることに気づかされる。けれども、神はそんな私達をこよなく愛してくださったから私達は神に立ち返り天国への道を歩んでいる。私達にはすでに将来の希望がある。だから私達は人に対して「あなたの将来は(キリストによって)望みがある」と言える立場にある。これは凄いことではないか。