イザヤ11:1-16、ローマ15:12
”エッサイの根から来る救い主” 内田耕治師
ダビデは子孫からある王が現れ、その王がとこしえの王国を立てる預言が与えられ、その王を待ち望むようになり、その後イスラエル人もメシヤをダビデの子と信じて待ち望むようになった。イスラエル人は私達と違ってメシヤが立てる国は“自分達の国イスラエル”と考えた。「エッサイの根」によってイスラエルが世界の中心となると、世界の散らされていた人々が戻り、北王国と南王国の対立はなくなり周囲の諸民族を圧倒すると信じた。まさにイスラエル中心主義である。
けれども11章はメシヤを「(ダビデの)父エッサイの根株から生える新芽」と言う。「ダビデの子」は先祖を除外するが「エッサイの根株」は先祖を含む。先祖には重要な人物がいる。アブラハムだ。彼は約束の地に行く時、彼の子孫が地のすべての部族を祝福する約束を与えられた。ダビデだけでなくアブラハムの子孫でもあるイエスキリストがその約束を成就する。だからイスラエル中心主義に見えても、よく読むとキリストが全人類を祝福するという預言だ。
メシヤとは油注がれた者だが、その油とは「知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる知識の霊」だ。それらに満ちたイエス様は正義、愛、憐みに富むさばきをした。福音書はイエス様が当時の腐敗した宗教的権威とことばで戦い罪を指摘した論争の書であるが、それは「口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す」の成就である。イエス様は当時のユダヤ教の改革を目指しながら憎しみを受け、十字架にかけられた。でも、それが永遠の御国を確立するための神のご計画だった。
「狼は子羊とともに宿り、――獅子も牛のように藁(わら)を食う」肉食動物が草食に変わり、餌食になる動物や子供が共にいられる平和で安全な世界は永遠の御国の様子を描く。「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、――まむしの巣に手を伸ばす」蛇に意味がある。エバは蛇に誘惑されて罪を犯し、アダムも追随し、人類は罪ある者となり、神は「おまえと女の間、おまえの子孫と女の子孫の間に敵意を置く」と宣告したが「彼はおまえの頭を打つ」とキリストがサタンを踏みつぶし敵意を取り去ることも約束した。永遠の御国とはその約束が成就した所つまり天国である。
世界の中心となるイスラエルを永遠の御国とすると、異邦人である私達が納得できる解釈ができる。すなわち散らされていたイスラエル人とはキリスト信仰によって救われた人々であり、散らされていたイスラエル人が戻るとはキリスト者が世の終わりに永遠の御国に集められることである。それがアブラハムに与えられた祝福の約束が成就することである。
聖書の預言には多重性がある。11章は第二次大戦後のイスラエルの建国で長年、流浪の民だったユダヤ人が戻ってきて部分的に成就した。けれども、まだ成就していない部分がある。その成就は世の終わりにキリストが再び来られて天の永遠の御国が確立し、そこにすべてのキリスト者が集められることである。私達はそれを信じてキリストの再臨を待ち望んでいる。2020年前、人として来られたキリストはやがていつか私達を永遠の御国へと連れていくために来られる。その時がいつかは分からないが、待ち望もう。「異邦人はこの方に望みを置く」からである。