マタイ7:24-29、ローマ7:24-8:1

「岩の上の家、砂の上の家」  内田耕治師

 

5章から始まった山上の説教の最後は“岩の上の家と砂の上の家”の例え話だ。それが教える霊的真理は世の終わりの教えだ。人類最初の人間は初め神に従い神とともに歩んでいたが、悪魔に惑わされて神に反逆し、神から離れ、罪ある者となった。その後の人類はすべて神の前に罪ある者であり、体や心は元気でも霊的に死んだ者として生まれる。けれども、神は今から約2000年前、神の御子イエスキリストを遣わし、人類の罪のために十字架にかけることで救いの道を定めた。それが狭い門、細い道だ。それはイエス様を信じることである。

またイエス様は世の終わりに再び来て、主を信じて救われた者を天国に連れて行くことを約束した。よく2000年前イエス様が来られたことを初臨と言い、再び来られることを再臨と言う。世の終わりの再臨は、主を信じる者には救いの時だが、主を信じない者にはさばきの時である。岩の上の家と砂の上の家の例え話はそのことを的確に描いている。嵐が来るまではどちらの家も同じように暮らせたが、嵐が来た時、岩の上の家はビクともせず、砂の上の家は無残にも破壊された。それは世の終わりの再臨で救われる者、さばかれる者を表わす。だから岩の上に家を建てるべきだ。岩とは主を信じることだ。だが、主は山上の教えを聞いて行うことによって岩の上の家は出来ると言う。

山上の教えとは、義のために迫害されるのは幸いとか、地の塩・世の光として良い行いをするとか、情欲を抱いて女を見る者は心の中で姦淫を犯したとか、右の頬を打つ者には左の頬も打たせろとか、天の父が完全であるように完全になれとか、自分の宝を天に蓄えろとか、心配しないで神の国と神の義を求めろとか、兄弟の目にある塵ではなく自分の目にある梁を取り除けなどなどである。ところで、これらの教えには私達が行い得ないものや行い難いものがたくさんあり完全に守れる者が1人もいないが、それにはある目的がある。それは、私達が行おうと取り組んでも行い得ない自分の罪を示されてへりくだり、信仰に導かれることだ。たとえば、迫害されて喜ぶなどできない。情欲を抱いて女を見た目をえぐり出して捨てるなどできない。右の頬を打つ者に左の頬も向けるなど出来ない。天の父のように完全になるなど出来ない。神に信頼して神の国とその義を求めることは難しい。自分のことは棚に上げて人の塵ばかり目につくから自分の目の梁を取り除くことは難しい。真面目に向き合えば自分の罪が示され、惨めな自分が見えて「私は本当にみじめな人間です」と言うパウロと同じになる。だが、彼は自分は心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えていると嘆きながら「こういうわけで、今やキリストイエスにある者が罪に定められることは決してありません」と言う。同様にみことばに真面目に向き合えば罪を示され惨めな自分に気づくことによって私達はキリストの十字架でその罪の赦しが与えられる信仰に立つことができる。それが岩の上に家を建てることだ。信仰とは、自分の行いや努力では行き詰ってどうにもならないと悟ることから始まるからだ。自分の力で何とかなるという自信があるうちは本当の信仰は持てない。だからイエス様が教えた山上の教えに真面目に向き合って自分の惨めさ、罪深さを示されるのは幸いなことだ。大いに自分の惨めさ醜さを示されようではないか。