マルコ14:43-65
“イエスを十字架にかけた者こそ救われる”  内田耕治師

「人々はその教えに驚いた。イエスが律法学者たちのようにではなく権威ある者として教えたから」民衆は律法学者達より優れたイエス様の権威を認めた。「わたしは正しい人ではなく罪人を招くために来た」律法学者は取税人や罪人を差別して一緒に食事しなかったが、イエス様は差別しないで一緒に食事をして福音を伝えた。イエス様は中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と語った。律法学者は“神だけが罪を赦すことができるのにそんなことを言うのは神への冒涜だ”と非難した。“神だけが罪を赦す”は正論だが、実際イエス様は罪を赦すことが出来る救い主である。

「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。それなのに、おまえたちは、それを強盗の巣にしてしまった」祭司長達は神殿で鳩を売る者や両替人に商売させて暴利を貪り、神殿の異邦人の庭を祈ることができないほど騒がしい場所にしていた。イエス様が厳しく非難すると、彼らは律法学者達とともにイエス様を殺す相談を始めた。これらのようにイエス様は祭司長、律法学者、長老よりも愛でも義でも遥かに優っていたから憎まれたのである。彼らはイエス様を遂に逮捕して最高法院で初めから死刑にしようとして裁判にかけた。

まずイエス様は神殿への冒涜で告発された。「わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を3日で建てる」イエス様はご自身の体を神殿に例えて死と復活を予告したが、人々はそれを神殿への冒涜と受け止めた。でも証言が一致しないので死刑にする決定打にならなかった。次に神への冒涜で告発された。大祭司が「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」と尋ねると、イエス様は「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」と答え、自分が神の御子キリストだとありのままに認めた。それが神への冒涜になり彼らの狙い通りに死刑判決が確定した。

けれどもイエス様が死刑判決を受け十字架にかけられることによって救いの道が開かれた。それは創世記のヨセフと似ている。ヨセフの兄達はヨセフをエジプトに奴隷として売り飛ばしたが、彼は長い年月を経て神の導きでエジプトを支配する者となった。エジプトに穀物を買いに行った兄達はヨセフに久しぶりに再会し、昔のことを悔いていた兄達はヨセフを通してエジプトに移住して大飢饉から救われた。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを良いことのための計らいとしてくださった」これはイエス様と祭司長、律法学者、長老達にピッタリ当てはまる。

神はヨセフの兄達の場合と同じように彼らのイエス様にした悪を良いことの計らいとしてくださった。それは、だれでも自分の罪がイエス様を十字架にかけたと信じる者は救われる救いの道を定めたことだ。たとえ死刑判決を下した祭司長、律法学者、長老たちでも自分達の罪を認めるならば救われる。この世で起こる悪いことに目を向けたり自分の弱さや悪い所に気づいて“人間って罪があるね”と言う人は案外いる。そう言う人達は聖書の真理にだいぶ近づいている。けれども、あと1歩が必要だ。それが自分の罪がイエス様を十字架にかけたことだ。“私は罪人だ、だけでなく、私がイエス様を殺した”と言うことは正解だ。“イエスを十字架にかける者こそが救われる”のです。