マルコ15:42-16:8、
ルカ7:47-48
“愛が動かした主の墓の石”  内田耕治師

イエス様は金曜日の午前9時に十字架につけられ午後3時に息を引き取った。日没になると安息日に入るから人々はいなくなった。するとアリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を葬るために現れた。彼は有力な議員で神の国を待ち望む人だが、主の弟子であることを隠していた。けれどもイエス様が死んだと聞くと勇気を出してピラトに主の体の下げ渡しを願った。ピラトはまだ死ぬには早すぎると調べさせたが、確かに死んでいたのでヨセフに遺体を引き取らせた。彼は遺体を丁重に葬り、それまでは控えめにしていたが、主への愛を表に現わした。私達キリスト者は彼と同じように主への愛は控えめではないか。たとえば自分から進んでではなく尋ねられ言わざるを得なくなって“クリスチャンです”と言うとかクリスチャンであることを隠すことが多いのではないか。

ところがヨセフとは対称的な人達がいた。その人達とはマグダラのマリヤを初めとする女性達だ。彼らは弟子達がヨハネ以外全部逃げて隠れていた時、イエス様の十字架を見ていた。目を背けたくなるような残酷な刑なのに初めから終わりまでじっと見続けた。図太いから見ることが出来たのか?そうではない。主を愛していたから、その場を離れることが出来ず、その後の埋葬も最後まで見届けたのだ。その熱い愛のゆえに彼らは主の復活を最初に目撃する者になった。埋葬のとき遺体に香油を塗りたいと思ったが、あいにく持ち合わせがなく買いに行こうにも安息日が始まり、1日待って安息日が終わってから香油を買って来たがすでに夜。墓に行きたいのはやまやまだが家に帰り、翌朝早起きをして香油を携えて墓に出かけた。

ユダヤの墓は洞穴に遺体を入れて入り口に大きな石で蓋をする。その石を動かすには力持ちの男性が必要だ。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるのか?」手伝う人はいないと知っていながら腐敗の進む遺体を何とかしたい一心で墓に向かった。軽率に見えるが、その女性特有の思いに押し出されて墓につくと、御使いがいて、すでに重い石を動かし、彼らに主の復活を知らせた。彼女らは気が動転して震え上がったが、その後、そんな彼女らが主の復活の証人として用いられた。また彼女らの熱い愛は主の復活とともに心挫けた弟子達を励まし再び立ち上がらせた。

今も福音を宣べ伝えるとき、最も大切なものは主への愛だ。私達はヨセフのように人を恐れて控えめにイエス様を愛する者だ。控えめは悪いことではないが、伝道の場合にはそれが壁になる。けれども、もし私達が熱くイエス様を愛したならば、その壁を打ち破ることができる。では、その愛はどこから来るのか?主の十字架による罪の赦しから来る。ルカ伝7章でイエス様はパリサイ人シモンの家で、ご自身の足を涙で濡らし髪の毛でぬぐい、口づけして香油を塗った罪深い女について「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。」と語った。多く赦された者は多く愛するようになる。私達のこれまでの罪は主の十字架によって赦され、これから犯す罪もイエス様の血によって赦される。私達も多く赦された者だ。そのことが分かれば私達もイエス様への熱い愛を持てるのである。聖書によって罪の赦しを確信し、イエス様への熱い愛をもって、みことばを、福音を宣べ伝えていきましょう。