創世記2:17、3:22-24、1コリント15:17-22

“いのちを与えるキリストの復活”  内田耕治師

 

神は“善悪の知識の木から食べるなら必ず死ぬ”と言ったのにそれを食べた初めの人間は死ななかった。どうしてか?また神は背いた彼らがいのちの木からも食べ、永遠に生きることがないようにエデンの園から追放した。では、善悪の知識の木から食べなかったら永遠に生きたのか?初心者がよくする質問だ。へブル9章「人間には1度死ぬこととーーーが定まっている」食べなくても寿命による死はあったと考えられるが、事実でないことから議論しても意味がない。むしろ大事なのは必ず死ぬと言われたのに死ななかったことだ。彼らの肉体は死ななかったが霊的に死んだのである。

ローマ5:12「1人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、――」普通、私達はいろんな罪を犯すが死ぬわけではない。罪を犯しながら生きている。しかしローマ6:2でパウロは生きている自分達のことを「罪に対して死んでいる」と言う。その罪とは何か?初めの人間が善悪の知識の木から食べるなという神の戒めを破った罪である。その罪によって神との関係が損なわれ、霊的な死がもたらされ、今の私達もボタンの掛け違えのようにその死を引き継いでいる。

エペソ2:1「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた」過去形は霊的に死んでいても生きる可能性があることを示す。どのように?罪が死んだ理由だから罪が赦されたら生きる。罪の赦しは神の御子キリストの十字架による。だから霊的に死んだ私達はキリストによって生かされる。
「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」最初の人間が罪を犯して以来、人類はずっとその罪のゆえに死んでいたが、たった1人のキリストによって罪が赦され霊的に生かされる道が開かれた。それは快挙である。

ところで「キリストとともに」とはキリストも死んで生かされたことを意味する。復活のことだ。私達はキリストの死だけでは生かされることは出来ない。復活が必要だ。1コリント15章は当時、死者の復活を否定する人達がいたこともあって“キリストの復活がなければ罪の赦しはない、救いはない”と力説する。「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が1人の人を通して来たのですから、死者の復活も1人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」

人間である以上、だれでも罪のゆえに霊的に死んでいるが、だれでもキリストの復活によって霊的いのちを与えられ生かされる。またその霊的いのちはやがて世の終わりに与えられる永遠のいのちにつながる。だから私達は毎年イースターを祝う。その意義とはキリストの復活をお祝いするとともに、キリストの復活によって死んでいた私達が生かされたことを喜び感謝し、やがてキリストを通して永遠のいのちが与えられる希望を確認することだ。人間である以上、だれでも霊的に死んでいるが、知らないし関心がない人々がほとんどだ。神はそんな人々を憐れんで霊的いのちの大切さを気づかせ、そのいのちを与える神の御子キリストのもとに来なさいと招いている。私達はそのことを少しでも多くの人々に知っていただこうと励んでいる。それが福音の宣教である。