使徒1:6-8、ローマ13:9

“いろんな人々の隣人となる力”  内田耕治師

 

長い間、諸外国に翻弄される歴史を歩んだイスラエルは、外国の勢力を排除して国を再興してくれるメシヤを待ち望んでいた。そんな時に「御国が近づいた」と言って現れたイエス様を弟子達はメシヤと信じた。彼らはイエス様に期待していた。一方、イエス様も御国を再建する際に弟子達に対して大きな期待を寄せていた。それゆえ弟子達はその気になって「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」と質問した。

けれどもイエス様は「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません」と言って彼らの質問をはぐらかした。どうしてか?話題を軌道修正するためだ。弟子達の考えていた御国はこの世の国であり、彼らは上に立って人々を支配することを考えていた。けれども、イエス様が言う御国とは上に立つ者が人々を支配する国ではなく、むしろ人々に仕える国だ。マルコ10章「しかし、―――あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は皆のしもべになりなさい。」

御国を広げることを宣教と言う。宣教を先進国の人間が未開の野蛮人に文明を教えるような感覚で受け止めることがある。欧米の宣教師も今の私達もそう思ってしまうかもしれない。その思いは弟子達が上に立って人々を支配したがるのと似ているのではないか。宣教を、福音を伝えることだけで考えるとそうなりがちだ。けれども宣教は福音を伝えるだけでなく伝える相手に仕えることによって成し遂げられることだ。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」

聖霊の力とは福音を伝える力だけでなく、福音を伝えたい人々に仕える力でもある。その目的は人々に近づくことだ。人々は自分達とは縁も所縁もない遠い世界の人が語ったことはあまり耳を傾けないが、自分達に近づいて来る人の語ることは耳を傾けるからだ。しかも、私達は大変でもキリストの証人として近づこうとする。人々に仕えることはパウロが1コリント9章で的確に教えている。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです」奴隷になるとは人々に仕えることだ。

人々に仕える目標は人々の隣人になることだ。エルサレムという身近な人々から始まってユダヤとサマリヤという周辺の人々に広がり、さらに地の果てという未知の人々に対してキリストの証人になるとは、いろんな人々の隣人となることだ。聖霊の力とは、人々に仕えることで人々の隣人となる力である。“人々に仕える”では言い足りないところを“隣人となる”は完璧に満たしてくれる。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」宣教とは人々に仕えることで人々を自分の愛すべき隣人とすることだ。それは口で言うほど簡単なことではない。人と人の間にある壁は結構、高くて交わりを築いて隣人になるのは大変だ。けれども、そこに神の力が働く。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、――力を受けます」私達の力では無理でも聖霊の力がそうしてくれるのである。