使徒1:6-11

“天に昇ったキリストはまた来られる”  内田耕治師

 

イエス様が昇天するまで弟子達は、神のご計画が分からず聖書が教えるような信仰になっていなかった。ピリポ・カイサリアでイエス様は「人の子は多くの苦しみを受け、長老達、祭司長達、律法学者達に捨てられ、殺され、」と最初の十字架の予告をした。するとペテロはイエス様をいさめ始めた。イエス様は「あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」とペテロを叱りつけたが、他の弟子達もペテロと同じ思いだった。その後、イエス様は何度も同じように十字架の予告をしたが、彼らは分からず恐れて尋ねようともしなかった。「3日後によみがえらなければ」と復活も予告したが十字架とともに分かっていなかった。

イエス様は十字架にかかる前から再臨について多く語った。マタイ24章でイエス様は戦争や地震や飢饉は終わりではなく産みの苦しみの始めであること、世の終わりのしるしとして迫害が起こり偽キリストや偽預言者が現れることを語り、主が再び訪れ、その時、選ばれた者達を四方から集めて天の御国に連れて行くことを語った。ヨハネ14章「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。――場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と別の言い方で再臨と天の御国を語った。ところが主の復活後、弟子達は「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」とイスラエル王国の回復が関心事で主の再臨や世界宣教には関心がなく、聖霊を授けられることも聞いたが地の果てまで主の証人となるなど関心がなかった。

けれども昇天が彼らの信仰を変えた。弟子達は今後も主がともにいて下さると思っていたが主は取り去られた。でも、それによって聖霊が与えられた。ヨハネ16章「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」与えられた聖霊が働くことで弟子達はみことばによって導かれるようになった。ヨハネ14章「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを思い起させてくださいます」

御使いの知らせによって主が再び来られることは分かったが、何のために来るのか?自分達はどうすべきなのか?は御霊によってみことばを思い起こすことで分かったのである。たとえば、「人の子が選んだ者を集める」とはイエス様が救われた者達を天の御国に連れて行くことであり、「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません」とか「人の子は思いがけない時に来る」とは主がいつ来られてもよいように再臨を待ち望む信仰を持つことであり、「福音は全世界に宣べ伝えられてすべての民族に証しされ、それから終わりがきます」とは世界宣教のことである。だから主の再臨を待ち望む信仰を持ちながら、すべての民族に福音を伝えることを目指すことが神のご計画であり、イスラエル王国の回復はどうでもいいことが分かった。ところで、今の私達も再臨を待ち望む信仰を持ち、世界宣教のビジョンを引き継いでいる。国は宗教を利用したがり、信仰者に「主よ、美しい日本の国を再興してください」と言わせたがる。しかし、それは神のみこころではない。神のみこころは再臨信仰と世界宣教だ。「エルサレムとユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで」とあるように身近な所から主の証人となり、世界宣教を目指していこう。