1コリント15:3-5、使徒2:24-32

「いのちを与えるキリストの復活」  内田耕治師

私達はキリストの復活をどう捉えるか? まず“死者の中からよみがえるのは凄い”とほめたたえるが、使徒2章のペテロのメッセージはキリストの復活を通してもっと大きなことを見ている。
ペテロはキリストの復活を詩篇16篇の成就と捉えていた。詩篇16篇の作者はダビデである。25-26節「私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。―–」の「私」はダビデであり、「主」はキリストである。けれども、27節「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです」になると、「私のたましい」はダビデのたましいではなく“キリストのたましい”である。

その後の31節を見ればわかる。「それで後のことを予見し、キリストの復活について“彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない”と語ったのです」「彼」とはキリストだ。
使徒達や初代の教会は27節をキリストの復活の預言と解釈したのである。では、ダビデの子孫であるキリストが復活するのは何のためか?30節「彼は預言者でしたから、自分の子孫の1人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。」それはよみがえったキリストが王座につき王国がとこしえに確立するためである。その王国のことはサムエル記第二の7章「彼はわたしの名のために1つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」を参照。だからキリストの復活は永遠の王国つまり天国の始まりなのである。

王国が確立することは当時のイスラエル人の悲願だった。彼らはメシヤが来て外国勢力を追い払い、国を建て直し、自分達の王国を確立することを強く願い求めていた。イエスキリストは初めそのようなメシヤと思われていた。けれども、イエスキリストはこの世の国ではなく、永遠の神の国を確立するために来られた。キリストが確立する王国とは滅びない永遠の神の国である。それは神の祝福がイスラエル人だけでなく全人類に広がることを意味する。使徒の働きを読むと、初めはイスラエル人だけを考えていた使徒達が全人類が神のみこころであることに気づいていく過程が読み取れる。だから今の私達もやがてその王国に入れられて主に直接まみえ、主とともにいて全き平安を得ることを楽しみにして待ち望んでいる。

けれども、主とともにある全き平安は、永遠の王国に入ってはじめて得られるものではなく、今すでに始まっているものだ。使徒達よりも1000年も昔のダビデは主と直接まみえることは出来なかったが、試練の中で「私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません」とあたかも主とまみえているような告白が出来た。それが彼の信仰だった。
今の私達も同じ信仰を持っているから「私はいつも、主を前にしています。」と言うことができる。そのために神は私達にみことばを与えている。良い本は私達の心に私達が知らない世界を鮮やかに描き、私達はそれを楽しむことができる。同じように、みことばは私達の心に神やキリストとそのみわざを鮮やかに描き、そのみわざが生み出す大きな恵みを思い起させてくれる。だから私達も試練はありながらダビデと同じように主とともにある歩みをすることができる。永遠の天国で主と直接見えることを期待しながら今、この世で主とともにある平安と喜びと希望を持っていきましょう。