使徒1:8、2:1-13
“さまざまな言語で語る救いの道” 内田耕治師
イエス様の復活後もイスラエル王国の回復を求めた弟子達はそのために主の助けを期待したが、主が昇天したために諦め、聖霊が注がれるように祈り出した。すると神のご計画とは王国の回復ではなく人々に悔い改めと罪の赦しを得させる福音を伝えることであり、その目標はエルサレムで終わりではなく、そこを出発点として福音を全世界に伝え、御国を拡大することであると分かってきた。選民意識が強くユダヤ人の枠を越えることなど頭になかった弟子達には思いも及ばなかったことであるが、神にはそんな大きなご計画があることがペンテコステの出来事に示されていた。
天から突然、激しい風が吹き、炎のような舌が分かれて現れ、1人1人にとどまった。「舌」とは言葉を表す。「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し出した」これを異言と解釈する人達がいるが、私達は文字通りに弟子達がさまざまな言語で神のみわざを語り出したことと受け止める。当時、周辺諸国に移住してそこで何代にも渡って生活する離散したユダヤ人がいた。彼らは居住する国々の言葉しか話せなかった。たまに母国に巡礼に来たのでエルサレムにはユダヤ人だけれども外国語を話す人達がたくさんいた。また、その頃、ユダヤ人ではないけれどもユダヤ教に改宗した外国人もいた。2章のいろんな民族や地域の名前がそれを表している。だから弟子達がさまざまな言語で神のみわざを語るのを聞いてそれぞれが反応することができた。これは、将来、弟子達やその後継者達が福音を携えて知らない言語を話す人々のところに入って宣教することを予告していた。
それ以来、その予告通りに多くの宣教師がさまざまな国に遣わされて福音を伝えるために現地の言葉を苦労して学んで習得してきたし、今もそうしている。言語の壁を乗り越えて福音は伝えられるのである。また世界宣教には、現地の言葉を習得することの他に、もっと大事なことがある。それはキリストの福音だ。いくら言葉がよく出来ても福音がなければ悔い改めは起こらないし信仰は生まれない。ペンテコステの出来事はバベルの塔と対称的だ。バベルの塔では、人々は神を無視して自分達の力を誇示したので神が彼らの言葉を混乱させ、その心はバラバラになり散らされて塔の建設事業は挫折した。けれども、ペンテコステは初めから言葉はバラバラだが、みんなが同じ神のみわざをほめたたえ、同じ心になっていた。どうしてか?弟子達には福音があり、神をほめたたえ、聖霊によって神のみわざを語ったからである。そして今も神は私達に同じことを求めている。
もし私達が宣教師としてどこかに行くなら、その国の言葉を学ばなければならないが、日本なら日本語だけで十分だ。でも、どこに行こうとパウロが言った「ほかの人たちに教えるために、私の知性で5つのことばを語りたい」を心に留めたい。宣教に私達の知性は大事な要素だからだ。それは世間で言う知識ではなく、みことばの知識だ。福音はみことばの知識によって説き明かされ伝えられるからだ。熱意や人柄も用いられるが、みことばがなければ救いのみわざは起こらない。弟子達はみことばを心に蓄えていたから聖霊によって思い起こして語ることができた。けれども蓄えがなければ思い起こしようがない。それゆえ私達はみことばを心にたくさん蓄えることが必要だ。自分の信仰がしっかりするためだけでなく、あの人やこの人に福音を伝えるために聖書通読に励もう。