士師記17:1-18:26
“小さな者への愛か、それとも自分の優遇か” 内田耕治師
エフライムの山地の辺鄙な所に住むミカは自分の家に神の宮を造り、母が造らせた彫像や鋳像を置き、本来、祭司になるべきレビ人を招く可能性はないと思って自分の息子の1人を祭司にしていた。そんなミカの所に旅の途中の若いレビ人が立ち寄った。彼は、ユダ部族の地に寄留していたがもっと良い寄留地を探していた。ミカは彼に自分の家の祭司になるよう依頼し、交渉の末、彼は引き受けた。ミカはレビ人が祭司になってくれたことを非常に喜んだ。
一方、ダン部族は5人を選んで派遣し、相続地にふさわしい土地を調べさせた。北に向かった彼らは途中、エフライムのミカの家に泊まり、そこにレビ人がいることに気がついた。彼らは彼がミカの家に祭司として雇われたことを知った。5人は自分達の旅が成功するかどうか神に伺ってほしいと彼にお願いし、彼は祝福を与えた。彼らはライシュの地に着いた。その地は良い土地で占領しやすいことが分かり、それを報告したのでダン部族はライシュを占領するために出かけた。途中、5人を先頭にしたダン部族はミカの家に再び立ち寄り、彫像と鋳像を奪い、祭司を強引に連れて行った。ダン部族はライシュを占領し相続地とし、連れて行かれたレビ人はダン部族の祭司となった。
偶像礼拝するミカも略奪を平気でするダン部族も困ったものだが、士師記は略奪されたレビ人の若者に焦点を当てる。「祭司の心は踊った」連れて行かれた彼はむしろ進んでダン部族について行った。「あなたは1人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか」に心を動かされてミカの家よりもダン部族の祭司となることを選んだのである。士師記はこのような無法状態を描いて“果たしてそれで良いのか?”と問いかけている。
士師記は問いかけるだけでそれ以上は何も言わないが、新約聖書のマタイ伝はこういう問題についてあるべき姿を明確に示す。マタイ25:40「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの1人にしたことは、わたしにしたのです」士師記の小さい者はミカであり、マタイ25章の小さい者は「空腹の人」「旅人」「裸の人」「病気の人」「牢にいる人」だ。いろんな人がいるが、共通点がある。それはそういう人達に良くしても自分の出世や栄達につながらないことだ。けれどもイエス様はむしろ自分の出世や栄達につながらない小さな者に良くしてあげなさいと教え、さらにそういう人達に良くすることは「わたし」つまりキリストに良くするだと教えている。
私達の助けを必要とする人を助けることはキリストを愛することである。ところが、私達は案外、自分の出世や栄達や優遇を求めるあまりに身近にいる小さな者達をないがしろにする傾向がある。卒業式によく歌う“仰げば尊し”には“身を立て名を上げ”という歌詞がある。身を立て名を上げるために努力するのは悪いことではない。けれども、それだけを目標にして進んでいくと必ずと言っていいほど小さな者をないがしろにする。日本は小さい者をないがしろにしてのし上がってきた国だ。他の国も似たり寄ったりだ。そんな国に生きる私達は自分の出世、栄達、優遇を第一にする生き方をしやすい。だから聖書は“それで本当に良いのか”と問いかけている。小さな者達を忘れず、むしろ良くしてあげることでキリストを愛する者となろう。これが主のみこころである。