士師記20:1-48

“悪を取り除く、それが聖戦だ”  内田耕治師

 

ベニヤミン族はとんでもない問題を起こしたが、その発端はエフライムの山地に住むあるレビ人とその側女の不仲だった。彼女は勝手にユダのベツレヘムの実家に帰ったが、4か月後、連れ戻すために彼がベツレヘムに行くと彼女は彼を快く迎えた。彼女の父は仲直りができたと思い、喜んで宿泊を勧めたので4日間滞在し、5日目に出発したが出遅れて夕方ベニヤミン族が住むギブアに着いた。だれも泊めてくれる人がいないので町の広場で野宿を考えていたらエフライムの山地出身の老人が現われた。“家に泊まってください”と言うのでレビ人はその老人の家に泊まった。その夜、ギブアのいるベニヤミンのならず者達がそのレビ人を襲うために家を取り囲んだ。彼らはソドムの人々のように性的に倒錯した者達だった。初め老人はロトと同じように自分の娘を差し出そうとしたが結果的にレビ人の側女が差し出され、彼らは彼女を暴行して殺した。

レビ人は死んだ側女を12に切り分けて12部族に送り、ミツパに集まったベニヤミンを除くイスラエルの代表者達に事の次第を話した。彼らは“あってはならないことだ”と一致団結して40万の兵士を集め、ベニヤミン族を制裁することになった。「あのよこしまな者達を渡せ、イスラエルから悪を除き去ろう」イスラエルは初め全面戦争をするつもりはなかったが、武勇に優れたベニヤミン族がそれを宣戦布告と思い込んで無鉄砲にも全イスラエルに戦いを挑んで全面戦争になった。初戦は26700人のベニヤミンは無勢でも全戦全勝だったが最後に敗北した。イスラエルがギブアの町に伏兵を置き、主力部隊が逃げてベニヤミンをおびき出し、挟み撃ちにする作戦に出たからである。

イスラエルは主のみこころを求めながらベニヤミンのために泣いた。たとえ悪を取り除くためでも同胞と戦うことは悲しいからだ。またその涙はライバル意識を克服するためでもあった。もし全イスラエルを敵に回して敗北間近のべニヤミンを“ざまあ見ろ”と嘲るなら聖戦ではなくライバルを蹴落とす戦いになってしまうからだ。さらにイスラエルは戦いが終わってからもベニヤミンのために泣いた。600人が生き残り荒野に立て籠ったが、他の部族はベニヤミンには娘を嫁がせないと誓ってその存続が危ぶまれたからだ。21章には彼らが何とか妻を娶ることができるよう知恵を絞ったことが書いてある。

イスラエルが流した涙に学ぶべき神のみこころがある。私達のうちにもライバル意識があり、恥ずかしいが他人の挫折や失敗を喜んだり嘲ったりすることがある。それでは互いの愛や信頼を築けないし他人を育てることはできない。私達もイスラエルのように他人の挫折や失敗を悲しんで泣くべきだ。使徒20:31「私が3年の間、夜も昼も涙とともにあなたがた1人1人を訓戒し続けてきたことを思い起こして目を覚ましていなさい」パウロはエペソの人々を育てるために涙とともにみことばを語った。それは他人のために泣く1つの手本だ。またもっと身近なところに他人のために泣く手本がある。それは子育てだ。子供は分別が身につき一人前になるには時間がかかる。難しい年頃になると反抗したり、後先考えずに行動して挫折したりで親はよく泣かされるが、匙を投げることはできない。だから涙を流しながら祈り続ける。子育てこそ他人のために泣く手本である。神のみこころは他人を育てるために進んで涙を流すことだ。あなたはだれのために涙を流すだろうか。