マタイ8:14-17

“赦しがもたらす愛の行為”  内田耕治師

 

「ペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。イエスは彼女の手に触れられた。すると熱が引き、」彼女が癒されたことはすぐに町中に広がり、夕方になると人々は悪霊につかれた人達や病の人達をイエス様の所に連れてきた。現代では決して起こらないことだが、当時ほかに助かる見込みはないから癒しの名人が来たという噂だけで集まった。イエス様は人々の切実な願いが分かっていたので皆、癒してあげた。安堵感と喜びが広がった。

マタイはこの出来事を単なる癒しだけでなく旧約聖書のイザヤ53章の預言の成就として見る。イザヤ53章で「彼」は私たちの病を負うことから始めるが、病以上のことを負うと書いてある。「私たちの背きのために刺され」「咎のために砕かれ」「私の民の背きのゆえに打たれ」彼が負うものは私達の罪である。だから彼の苦難は私達の罪の身代わりとして十字架にかかられたイエス様を表す。

マタイの目的は、癒しそのものよりもその癒しによってイエス様の十字架による罪の赦しという恵みを伝えることにある。だから霊的に解釈するとペテロの姑の熱や人々の病や悪霊は私達の罪を表し、姑の熱が引いたことや人々が悪霊から解放され病が癒されたことはイエス様の十字架によって罪の赦しが与えられたことを表す。

さらに罪を赦された恵みによってその生き方が変わることも教えている。ペテロの姑は熱が引くとただちにイエス様をもてなした。彼女の姿は罪の赦しが愛の行為をもたらすことを表す。一方、彼女以外の癒された人達は癒されて良かったと思ったが、すぐにイエス様の前から立ち去った。彼らは罪を赦されたが、その生き方が変わらなかった人達を表す。この差は宣教の現実である。“救われたら生き方が変わるはずだ。変わらないのは救われていないからではないか”と言う人達がいる。それは理想的なあり方だけを見た意見だ。人の救いと成長は工場で同じ品質の製品を次から次へと生産するようにはできない。

そんな中でペテロの姑の存在はどうしたら生き方が変えられるように導けるか1つ方法を教えている。彼女以外の人達は急に癒しの名人がいると知らされてその日の夕方来た人達だからイエス様のことは全く知らなかった。一方、ペテロの姑はペテロを通してイエス様がどんなお方なのかある程度知っていた。イエス様を知っている。それが大きな差を生み出した。霊的に解釈すると、同じようにイエス様の十字架に示された神の愛をよく知るならばその生き方が変わる。でも、あまり知らなければ変わらない。

だからイエス様をよく知らなくてはならないが、イエス様をあまり知らない人がいつよく知るようになるかは主の導きによることだから主に委ねるほかはない。でも、イエス様を宣べ伝える私達としてお大事なことは諦めないで祈り続けることだ。だから主の導きを信じて祈り続けよう。