マタイ8:18-22
“キリストの弟子となる道” 内田耕治師
「人の子には枕するところもありません」とてもそんな生活はできないと思わされるがイエス様もこの通りの野宿生活をしたのではない。行く先々で泊めてくれる人達がいてだいたい枕する所がある生活をした。でも、なぜそう言ったのか?理由は1人の律法学者が「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と言ったことにある。当時、律法学者は人々から一目置かれる権威のある者であり、律法学者達もそうされることを期待した。
けれどもマタイ23章でイエス様は律法学者のそういう所を厳しく批判した。律法学者だけではない。だれもが人々から一目置かれる者となる期待を抱いている。けれども、そういう期待を実現するためにキリストの弟子になるならそれは間違いだとイエス様は釘を刺した。刺した釘とはイエス様ご自身のあり方だ。イエス様は「わたし」ではなく「人の子」と言った。再臨のことを言う場合に「人の子」がたくさん出て来る。それはダニエル7章「人の子のような方が天の雲とともに来られ」から来ている。律法学者はイエス様が途方もなく偉大なお方だと考えただろうが、それは来るべき世でのことであり、この世では「枕するところもない」生き方をするとイエス様は言った。それは“必要は満たされるが、この世の栄誉とは関係がない生き方になる。それで良ければついて来なさい”ということである。
次に1人の弟子が「まず行って父を葬ることをお許しください」と言うとイエス様は「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい」と言った。召された家族を葬ることはいつの時代でも大切なことなのに、どうしてそんな過激なことを?この弟子はイエス様を信じていながらイエス様に従うことを遅らせようとしたからである。
この弟子だけでなく私達もイエス様だけに救いがあることが分かっているのにこの仕事を済ませないとイエス様に従えないとか、この問題を片付けないと信仰生活に入れないと言うことがある。そういうことではいつまで経ってもイエス様に従うことができない。この世のことは大事だけれども、この世のことをどれだけ真面目にやり、どれだけ頑張っても救いを受けることはできない。だからイエス様はこの世のことを死人が死人を葬ることだと言うのである。
この世のことはかなり強く私達を拘束する。拘束されているうちにそれが当たり前になり、拘束されないと落ち着かず不安にさえなる。イエス様に従うとは、その拘束から自分を解き放ってイエス様に献げることである。イエス様は身内の葬儀さえ放棄してもいいような過激なことを言ったが、その目的は私達を強いこの世の拘束から私達を解き放ってイエスキリストに従わせるためである。この世のことは必要だし、神はそれを楽しむことを許している。けれども、この世のことをするだけでは、いのちの道を歩むことはできない。イエスキリストだけがいのちの道である。そのことがわかったら、ぐずぐずしないでただちにこの世のことは一旦横に置いて自分の時間や持てる物をイエス様に献げて従おう。それがキリストの弟子となる道である。