マタイ8:23-34
“キリストの弟子である証拠” 内田耕治師
この箇所はキリストの弟子とはどんなものか実例で教えている。イエス様は舟に乗ってガダラ人の地に福音を伝えに行こうとしていた。父の葬儀を気にした1人の弟子は初めその舟に乗らない気だったが「死人たちに死人たちを」という主の一言で乗ったようだ。彼が舟に乗るとは主に従うことと他の弟子達とともに共同生活をすることを意味した。霊的にはこの舟は教会を表す。私達も教会があるから人々に宣教ができるし、信じた人達を適切に養い育てることができる。そのように教会は大切だから、教会の交わりに加わることがキリストの弟子である証拠である。
弟子達が舟に乗って出かけると、湖は大荒れ、舟は大揺れ。主が居眠りする中、彼らは「主よ、助けてください」と叫んだ。彼らは自分の弱さを主の前にさらけ出した。主が風と湖を叱ると、湖は凪になり、彼らは非常に驚いた。この出来事は主の前に弱さをさらけ出した弟子達が主に支えられて歩む姿を表す。彼らと同じように、私達も自分の弱さを主の前にさらけ出すことによって主に支えられて主に従い通すことが出来る者である。自分で努力するのは良いことだが、信仰は自分の力や頑張りではなく神からの恵みだから弱さを素直に認める者を主は支えてくださる。だから率直にそうできることがキリストの弟子である証拠である。
もう1つ大事なことがある。キリストの福音は本来だれもが歓迎すべきものであり私達も人々に喜んでいただけると期待して伝える。けれども、現実的には人々がまったく理解せず、拒否することがある。ガダラ人は1つの例だ。悪霊に着かれた2人がイエス様を迎えると、彼らの内に住む悪霊はイエス様が神の子であることが分かり非常に恐れた。悪霊どもは、自分達を追い出すのなら豚の群れに送ってほしいと懇願。主が許すと、悪霊どもは豚に入り、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、溺れて死んだ。それを目撃した者達は驚いて逃げ出し、町の人々に知らせた。
すると人々はイエス様にこの地方から立ち去るよう懇願。2人の人を悪霊から解放したことは幸いな喜ばしいことなのにまったく理解せずイエス様を追い出した。弟子達がどう思ったか書いてないが、素晴らしいことが起こったのに、どうしてそんなことをするのか?と思ったに違いない。けれども、そんなことがあっても彼らはひるむことなくイエス様に従い続けた。どうしてか?「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。―――天においてあなたがたの報いは大きい」マタイ5:11-12
キリストの御名のゆえに拒否されるとしたら、それは天の栄誉になるからである。私達もそうなった時、喜ぼう。また、ある所で拒否されたなら、それは別の所に行きなさいというサインである。参照、マタイ10:23。1つの所で拒否されてガッカリしている暇はない。伝えるべき人々はたくさんいるからだ。では、周りにキリストにまったく関心のない人達が多く、次に行く所がない今日の私達はどうしたらいいだろうか?まず天で栄誉が与えられることを喜びながら、挫けないで関心のない人達がやがて関心を持って主に導かれるように祈ろう。それが私達がキリストの弟子であることの証拠である。