ルカ10:25-37

“平和を作る憐れみ深い行い”  内田耕治師

 

“良いサマリヤ人”の背後にはユダヤ人とサマリヤ人の対立があり、歴史的な背景がある。イスラエルは昔、北王国と南王国に分かれていた。北王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされて主だった人々は移住させられ、代わりに外国人が連れて来られて北王国の地に住んだ。彼らは偶像礼拝を持ち込み、人々は真の神も偶像の神々もあがめ、雑婚が進んだ。これがサマリヤ人の起源である。

その後、南王国もバビロン帝国に滅ぼされ、エルサレムの神殿は破壊され、主だった人々はバビロンに連れて行かれ、70年の捕囚の後、その子孫が祖国に帰り、神殿の再建に取りかかった。その時、サマリヤ人は神殿再建の協力を申し出たが、ユダヤ人は彼らを異質な者達と考え、協力を拒否。頭に来たサマリヤ人はエルサレムに対抗してゲリジム山に神殿を建設。モーセ五書だけを聖典としてユダヤ人とは違う歩みを始めた。

その後、紀元前2世紀にシリヤのアンティオコス・エピファネスがユダヤを支配し、ユダヤ教を根絶しようとギリシャの文化や偶像を押し付けたが、ユダヤ人は犠牲を出しながら迫害と戦った。一方、サマリヤ人は生き延びるためにユダヤ人との違いを強調し、妥協して偶像を自分達の神殿に受け入れた。その後、ユダヤ教に熱心なヨハネ・ヒルカノスがユダヤを支配すると、彼は妥協して偶像を置いたゲリジム山の神殿を徹底的に憎んで破壊。対立は決定的、交流が途絶えた。

こんな歴史があると、話し合いをしてもお互いに批判ばかりが出てかえって溝が深まり、平行線だ。けれども、憐れみ深い行いはすぐに平和とは言えないまでも、和解のキッカケを作り、対立を解きほぐし、平和に近づけることが出来る。イエス様の意図はそこにある。祭司とレビ人は神の教えをよく知っている人達だ。彼らは民数記19章の死人に触れて自分を汚してはならないとの教えを知っていて、もし倒れていた人が死者なら自分を汚すことになると心配して通り過ぎた。彼らは神の教えを忠実に守ろうとしたが、「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」という最も大事な教えを守れなかった。一方、このサマリヤ人は半殺しにされて倒れている人を見て可哀想に思い、その思いに忠実に従ったからその教えを守ることができた。

私達はこのサマリヤ人と同じように出来るとともに祭司やレビ人と同じような者でもある。それは何を教えるのか? 聖書をよく読み神の教えをよく知り従うことは非常に大事なことだが、それだけやっていれば隣人を愛せるわけではない、まず私達が助けを必要とする人に対して憐れみの心を持ち、その心を行動に移すことが必要だ。イエス様は、たった1人のサマリヤ人の憐み深い行いを話すことによって対立を克服して平和を作り出すのは1人から始まることを教えている。偉い政治家達が話し合いをして友好条約を結ぶことは大事なことだが、だからと言って完全に対立を克服し、平和ができるわけではない。大事なことは1人1人がその置かれた所で、様々な隣人を愛して、その愛によって対立を克服し、平和な関係を作ることを目指すことだ。では、私達にとって様々な隣人とはだれか?私達1人1人が様々な人々に近づき、関わり、たとえ話のサマリヤ人のように行うことが出来れば幸いです。