マタイ9:14-17

“新しいぶどう酒は新しい皮袋へ”  内田耕治師

 

ヨハネの弟子たちはヨハネからバプテスマを受けたイエス様をヨハネの弟子位に思っていたから、禁欲的なヨハネのあり方を受け継がず弟子達とよく食事し「大食いの大酒飲み」と嘲られていたイエス様のあり方に疑問を感じ、「なぜあなたの弟子達は断食しないのか?」と質問した。それに対してイエス様は「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか」と問い返した。花婿はイエス様、友人達は弟子達だからイエス様と弟子達の食事は結婚式を表す。一方、悲しむことは断食を表す。

“結婚式に断食はそぐわない。だから弟子達と大いに食べて楽しんで何が悪いのか?”とイエス様は反論したのである。そんなイエス様だから福音書に食事会がよく出て来るし、今も教会はよく食事会をする。イエス様はただお腹を満たすためだけでなく、やがて来る天国の大宴会を待ち望む信仰を表すために食事会をした。8:11「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます」今の教会もその信仰をもって食事会を行いながら天国の大宴会を待ち望んでいる。

けれども当時は断食や言い伝えを厳格に守ることで神に近づく律法主義が盛んだったので天国の大宴会を待ち望む信仰を伝えるのは難しかった。でもイエス様はそんな中でもその信仰を伝えようとして真新しい布切れや新しいぶどう酒のたとえを語った。新しいぶどう酒とはイエス様の教えである。それを古い皮袋に入れるとは律法主義でイエス様の教えを受け止めることだ。でも、そんなことをしたら両方ともダメになる。だから新しい皮袋に入れるとは律法主義を一旦捨てて信仰をもってイエス様の教えに聞くことである。

今の日本は古代のユダヤと同じように努力して行うことを大事にする律法的な社会だから同じようなことが問題になる。努力して何か行うことは良いことだが、努力してあるレベルに達しなければダメだとか、良い結果を出さなくてはダメだという考え方に支配されると、イエス様を受け入れることができない。時々”もう少し立派になってから教会に行きます”と言う人達がいる。それは新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることであり、そう言っているうちは教会に行くことができないしイエス様を信じることもできない。

“信じるだけで行いができないではダメだ”と言う人達がいる。これも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることであり、そう言っているうちはイエス様を信じることができない。それらは国民の生活レベルを引き上げたりビジネスで成功するためには有効だが、イエス様に向き合うときはかえって邪魔になる。大事なことはまずイエス様を信じてその教えに聞くことである。それが新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れることである。私達は律法的な人達に批判されたり、自分のうちに住む律法主義にさばかれたりで落ち込むこともあるが、主のみことばにしっかりと立ち、主を信じ期待し待ち望む歩みを続けていこう。