マタイ9:18-26
“失ったものを主は取り戻してくださる” 内田耕治師
マタイはマルコやルカとは同じ出来事を書きながら大きく違うことがある。マルコやルカでヤイロは「娘が死にかけています」と言い、マタイは「娘が今、死にました」と言う。どちらが本当かを考える必要はない。むしろマタイなりに言いたいことを読み取ろう。
娘が死にかけている状況から始まるマルコでヤイロは藁をもすがる思いでイエス様に娘の癒しを懇願する。イエス様はその願いを受け入れヤイロの家に向かうが、長血の女への対応で手間取り、そうこうするうちに娘の死の知らせが届き、家に着くと皆が嘆き悲しんでいた。イエス様が“娘は眠っている“と言うと、皆があざ笑った。ヤイロは最後に娘が生き返ってイエス様の死者を生き返らせる力を信じたが、それまでは信じていなかった。
一方、すでに死んだ状況から始まるマタイではヤイロは「娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と初めからイエス様の死者を生き返らせる力を信じていた。だからマタイの言いたいこととは見ないで信じることだ。その信仰によってヤイロは失われた娘の命を取り戻すことができた。長血の女も同じである。彼女は長血という病によって健康を失い、いろんな医者を回ったが治してもらえず、財産を使い果たし、さらに血の出る病によって宗教的に汚れた者とされ、人に触れることが禁じられ人々との交わりも失っていた。けれども「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と信じてイエス様の衣に触って癒された。イエス様も「あなたの信仰があなたを救った」と彼女がまず信仰をもって触ったことを誉めた。彼女もその信仰によって失ったものを取り戻したのである。
問題は違うが、私達も失ったものをイエス様を信じることで取り戻し、希望を持つことができる。私達の失ったものとは神の子どもという立場だ。人類最初の人アダムの犯した罪のゆえに私達は生まれながらに神から離れ、罪ある者となり、神の子どもという立場を失った状態で生まれてきた。けれども私達の罪のために十字架にかけられたイエス様を救い主と信じるならば、神の子どもという立場を取り戻し、その損失を解消することができる。
ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子どもとなる特権をお与えになった。」みことばを通してイエス様を信じることで私達の罪は赦され、人類最初の人以来、失われていた神の子どもという立場を取り戻し、天国への道を歩むことができるのである。分け隔はない。イエス様はすべての人に“わたしを信じなさい”と招いている。
またすでにイエス様を信じて神の子どもとなった私達には、初心忘れるべからずのように信仰から始まったことを信仰によって続けることが大事だ。ローマ1:17「信仰に始まり、信仰に進ませる」ヤイロや長血の女が見ないでイエス様の力を信じたことを、そして私達自身もイエス様を見ないでみことばだけを頼りにして信じたことをいつも心に留めて歩んでいきましょう。