ルツ記1章

“国も民族も越える全能の神”  内田耕治師

 

ルツ記は士師記と同じ時代だ。ユダに飢饉が起こりベツレヘム出身のエリメレク一家は死海の東のモアブの地に移住し、新しい歩みを始めたが、次々に不幸が襲った。まず夫のエリメレクが死んでナオミと2人の息子が後に残された。2人の息子マフロンとキルヨンはモアブの女性を妻に迎えた。

ケモシュの神を崇めるモアブ人はアブラハムの甥ロトの娘の子孫である。偶像礼拝の習慣は結婚を通して入るものなので申命記7章にカナンの7つの民とは婚姻関係を結んではならないとの律法があるが、なぜかモアブ人は7つの民に入っていない。申命記23章には「モアブ人は主の集会に加わってはならない」とあるが結婚までは禁じていない。だからモアブの女性と結婚できたのであろう。

けれどもマフロンとキルヨンがしばらくして死んでナオミと2人の嫁は途方に暮れた。そんな頃、故郷のユダの地は飢饉が収まり、暮らしぶりも良くなったという噂を耳にしたのでナオミは思い切ってモアブの地に見切りをつけてユダの地に帰る決心をした。嫁達もナオミとともにユダに行く決心をした。けれどもナオミは若い嫁達の再婚の世話などとても出来ないし、民族と信仰が一体だった当時ではモアブ人の嫁達がイスラエル人の社会で生活すると差別され苦労する。それでナオミは2人の嫁にモアブに帰ることを勧めた。

その勧め方が興味深い。“もしある人が死んで子がない時は、その兄弟が死んだ人の妻を迎えて妻とし、その女が初めに産む男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名を絶やさないようにせよ。この慣習通りにするには私は年を取り過ぎて無理だ”このナオミの説得でオルパは納得。しかしルツの決心は変わらない。彼女は結婚生活を通してイスラエルの神に出会い信じてケモシュの神を捨てたからだ。それは私達がイエスキリストを信じたのに匹敵する大きな変革だ。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」この信仰告白によって彼女はモアブの地を後にしてまだ見たことがないユダの地に出かけた。

主なる神は本来どの民族であろうと信じる者はだれでも祝福するお方だ。けれども、主がイスラエル人を選んで以来、イスラエル人だけが主を信じる神の民となり、他の民族はそれぞれ偶像の神々を持ち、両者の間には壁があった。モアブ人の中から主を信じたルツはいろいろ試みがあったと思うが、その壁を乗り越え、どんな民族からでも主なる神を信じ、その祝福にあずかれることを証しした。だからルツは女性で外国人でありながらその名前がマタイ1章のイエスキリストの系図にあるのである。

日本人のほとんどが仏教を信じていないし仏教が何かを知らないのに“自分達は仏教徒かな”という意識を持っている。そんな中でキリスト者として生きて行くと、それなりに摩擦がある。個人主義のアメリカと違って日本は同調圧力が強く、いまだに民族と信仰は一体の国だからだ。けれども、そんな国でキリストを信じ従う私達は、小さな者であってもルツと同じことをしている。凄いことではないか。そう思って信仰生活に励みましょう。