コロサイ1:13-15
“キリストは見えない神のかたち” 内田耕治師
私達クリスチャンは、ただ福音を伝えて宣教のことだけ考えていればいいとき、キリストのみわざを言うだけで“キリストがだれなのか?”をあまり言わないし考えない傾向があるが、異端に出会い自分の信仰を守らなくてはならないとき“キリストとはだれなのか?”と真剣に考えるようになる。コロサイ書はそのような異端との戦いのために書かれた。
キリストを御子つまり神の子と言うが、キリストが神の子とは神だということだ。御父は神、御子は神、御霊も神。三位一体は私達の信仰の屋台骨に当たる大事な教えだ。けれどもユダヤ教やイスラム教、現代ではエホバの証人がことごとく三位一体を否定しキリストは神ではないと主張する。コロサイ教会に忍び込んだ異端もキリストを神から引きずり降ろそうとしていた。
旧約聖書によると、神とは目に見えないお方であり、目に見えるものを神として拝むことは偶像礼拝の罪だ。だから異端は目に見える人として来たキリストが神であるはずがないと言う。けれども目に見えない神が一度だけ目に見える人として来られたのがキリストだ。「御子は、見えない神のかたちである」キリストを見れば見えない神が分かる。ヨハネ14:9「わたしを見た人は父を見たのです」ヨハネ1:18「ひとり子の神が、神を説き明かされました」へブル1:3「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである」
異端はキリストが神から生まれたことを“神がキリストを生む前、キリストは存在しなかった。だから永遠ではない、神ではない”と問題にする。けれども、それは時間を超えた永遠の神を時間の物差しで考える間違いだ。私達が使う言葉には限界があり時間を超えたことを言葉で表すことはできない。だから「すべての造られたものより先に生まれた」の「先に」とは順序ではなく、キリストが神に造られた被造物とは違う存在であることを表す。
また異端は“キリストは神が造った被造物だから神ではない”と言うが、聖書はキリストが“造られた”のではなく“生まれた”と書いている。その違いは決定的だ。そして人間が生んだ子は人間であるのと同じように神が生んだキリストは神である。このように聖書は様々な証拠を用いて神の子キリストが神であることを論証している。そして私達もこの世にあって神の子キリストが神であることを証しする者である。
そのために言葉へのこだわりが大切だ。私達は会話でも祈りでも“神様”という言葉をよく使うが神の子やキリストという言葉をあまり使わない。神様は真の神だけでなく偶像の神々も含む一般的な言葉だから神様だけでは、どの神なのか分からない。江戸時代の長い禁教の影響で人を恐れて“神様”と言っておけば他の神々と思ってくれて差し障りがないと考えるのであろう。もちろん神様と言ってもいいのだが、神を愛するなら、むしろ恐れないで神の子、キリスト、父なる神、創造主という言葉へのこだわりを持つべきではないか。
そのことをフィンランドとモロッコの幼い子供達の遊びを描いたTV番組から教えられた。モロッコの子が“神は1人だ”と言うと、フィンランドの子は“神の子がいるのを知っているか”と問い、モロッコの子は“キリストのことか、あれは預言者だ、神じゃない”と言うが、フィンランドの子は引き下がらなかった。否定されても無視されても神の子やキリストなどの言葉にこだわり続ける。常に聖書を読み、みことばを学んでいる私達は、そうすることが自然ではないか。それが神を愛することではないだろうか。