コロサイ1:16-17、ガラテヤ5:22-23
“キリストは万物の創造主” 内田耕治師
いつでも神ではなくキリストが攻撃の的になる。4世紀の教会ではキリストが神であるか人であるかが問題になり、長い論争の末、キリストは人として来た神であり、御父は神、御子は神、御霊は神の三位一体の教理が確認され、キリストが神であることを否定した人々は異端として退けられた。ユダヤ教もイスラム教もエホバの証人もキリストが神であることや三位一体を否定し、キリストは預言者とか御使いだと言う。コロサイ教会に入って来た異端もキリストを神から引きずり降ろそうとした。それに対してパウロはキリストが神だと論証するために3つのことを語る。
「すべての造られたものより先に生まれた」「万物に先立って存在」
異端は“キリストが神から生まれた神の子なら生まれる前は存在しなかった。だからキリストは永遠の神ではない”と主張。字面だけならそう読み取れる。けれども、造られた被造物は何でもやがて滅び、時間の制約があるが、造られずして神から生まれたキリストは永遠であり時間に制約されない。「先に」「先立って」はそのような根本的な違いを表す。創世記1章が神を万物の造り主とするのと同様に「万物は御子によって造られた」とキリストを造り主とする。また神が万物を今に至るまで保持されたのと同様に「万物は御子にあって成り立っています」と神だけでなくキリストも万物を保持する者とする。だからキリストは父なる神と同一の本質をもった神である。
「御子のために造られた」
宇宙も地球も植物も動物も人間もキリストのために造られた。けれども、多くの人達がそのことを知らず“自分は自分のために存在する”と考える。資本主義が行きつく所まで行った現代では、さらにエスカレートして自分の欲望を満たすことだけが人生の目的で、そのために万物を使えるだけ使えばいいと考える。しかし“このままでは地球が持たない”ことに気づき出した。良い傾向だが、さらに“自分は自分のために存在する”の生き方を何とかすべきだ。
神とキリストが私達に求めるのは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の御霊の実である。これらは自分の欲望だけを満たすことと相容れない。自分だけでなく他の人達の必要を満たし全体の調和を考えることを目指す。そう考える背後には“自分は自分を造られた神とキリストのために存在する”の生き方がある。神とキリストは、もともと人間をそういう者にしようとして造り、そうなるために最初の人間の前に善悪の知識の木を置いてその実を食べてはならないという戒めを与えた。
けれども、彼ら(アダムとエバ)は悪魔に誘惑されて自分が神になろうとして戒めを破り、神から離れて“自分は自分のために存在する”の生き方になり、それは今日まで続いている。現在の問題の根はすべてそこにある。でも“神とキリストのために存在する”の生き方に変わる道がある。それは彼らが道を踏み外して人類はそのまま外れた道を歩んできたことを思い出して、神が定めた本来の道にキリストを通して立ち返ることである。そうすれば「御子のために造られた」生き方が出来るのである。