マタイ10:1-15

“平安を祈るあいさつ”  内田耕治師

 

「平安を祈るあいさつをせよ。その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにせよ」 

これは普通の挨拶ではない。主はもっと凄いことを言う。

「だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。―――さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすい」

ここで言う平安を祈るあいさつは、キリストの福音を伝えることである。平安は平和とも訳せるが、平和は福音の本質を表す。私達はもともと神の前に罪があり神と敵対する者だった。けれども、キリストの十字架のゆえに罪が赦されて、私達は神と和解し、神との平和が与えられた。だから平安を祈るあいさつとは、福音を伝えること、つまり宣教を表す。次にイエス様はどう福音を伝えるべきかを教える。イエス様はまず異邦人やサマリヤ人へは行かないで、イスラエルの家の失われた羊達に行って平安のあいさつをせよと教える。復活後の大宣教命令ではあらゆる国の人々を弟子としなさいと教えるのにどうしてか?そのことは別の機会に考えることにして、「失われた」ことについて考えよう。

「失われた羊たち」とは神から離れてしまった人々だ。確かにイスラエル人は神に選ばれたのに神から離れてしまう歴史を歩んだが、さらに遡(さかのぼ)って世界最初の人間の堕落から考えると「失われた」のは全人類である。人間である以上、だれもが失われた羊だ。だからイスラエル人でもサマリヤ人でも異邦人でもまだ救われていない人々の所に行き、平安のあいさつをし、福音を伝えよと主は教える。「行って“天の御国が近づいた”と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死人を生き返らせ、――」弟子達の宣教に私達にはない不思議な奇跡が伴うのは主がそうする権威を彼らに与えたからだ。けれども“天の御国が”と福音を宣べ伝えることはその権威に含まれない。なぜなら、それはすべての救われた者ができることだから。

「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい」私達の罪のために血を流したのはキリストであり、私達のためにキリストを遣わしたのは神である。私達は何もしていない。だから無償で私達は福音を伝えるべきである。「―――袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい」一見非常識に見えるが「働く者が食べ物を得るのは当然だから」平安のあいさつをして福音を伝える働きをするならば、神が必要を満たしてくださるという信頼を教えている。

6章で「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って心配する必要はありません。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、――」とすでにその信頼を教えたが、周辺的なことを気にし過ぎて大事なことを忘れる弱さを抱える人間は穏やかな言い方では効き目がない場合が多い。だからイエス様は何も準備しないで伝道旅行に行きなさいと極端な言い方で神への信頼を教えた。それゆえ、みことばによって目を開かされて、私達の必要を満たす神を信頼して、神の国と神の義をまず第一とし、平安のあいさつをし、1人でも多くの人達にキリストの福音を伝えることができれば幸いである。