コロサイ1:1-12
“本当の神を教える知識” 内田耕治師
パウロはコロサイ教会に行ったことがないが、彼が信仰に導いたエパフラスがコロサイ教会で奉仕していたので彼から教会の様子を聞いていた。エパフラスによると教会は成長していたが、憂慮すべき問題もあるのでパウロは何とかすべきだと思い手紙を書いた。
コロサイの信者達と面識はないので初めはコロサイの人々の信仰と愛とか天の望みとか福音を聞いて実を結んだことなど当たり障りのないことばかり書いている。けれども当たり障りのないことの中にコロサイ教会の抱える問題を知る鍵がある。「本当に理解した」の「理解」の原語エピグノーシスは知的に理解した以上のものを表す。「本当に」と念を押す言い方は必ずしも理解出来ていない人達の存在をほのめかす。 続く祈りにそれが現れている。
「霊的な知恵と理解力によって」の「霊的」とは知的な理解以上のものを言及する。「神のみこころについての知識に満たされますように」の「知識」の原語は「理解」と同じエピグノーシスだから、これも単なる知的な理解以上のものを言及する。「神を知ることにおいて成長しますように」の「知ること」もエピグノーシスだ。つまりコロサイ教会の問題は彼らの福音理解にあった。
どうしてか?2:8「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい」単なる知的理解に留まるなら、さらに知的に洗練されたものが現れたら興味はそちらに向う。そのようにしてコロサイの一部の人達は哲学つまり異端の教えに魅せられ、それに従って聖書を解釈し福音の理解がズレていたのである。だからパウロは何とかしなければと手紙を書いた。その思いが「理解」「知識」「知ること」と訳されたエピグノーシスに表れている。それは彼らのズレてしまった福音理解が正されて知的な理解以上に自分が愛し従うべきものとして福音を理解してほしいということだ。
ところで、21世紀の日本に住んでいる私達もこの世の教えに影響されて福音の理解がズレてしまうことがある。現在、活動する異端の群れはかつて既成の教会の人達から始まっている。だから私達は絶対に彼らのようにはならないという保証はない。今はオンラインで聖書やキリスト教の学びが自由にできる。便利だが問題があるものもある。至る所に偶像が蔓延(はびこ)り、偶像礼拝をさせる同調圧力が働き、国が率先して進化論を教えたがる日本では、私達を本来の信仰からズレさせるものがたくさんある。
また聖書そのものに理屈では理解できない所があり、そういう所を無理やり理屈で理解しようとして聖書の真理からズレることがある。私達もコロサイのある信者達のように福音理解がズレるかもしれない。だから私達は続けて聖書を読み、みことばから聞き続け、みことばによって正される必要がある。伝道が進んで教会が成長するためだけでなく、私達が聖書の真理からズレないように、また正しい福音理解を人々に伝えることができるように、続けて聖書を読み、みことばから聞き続け、みことばによって正されていきましょう。