エレミヤ2章、1コリント4:4

“私には罪はないということが罪だ”  内田耕治師

 

エレミヤはバビロン帝国を恐れるユダ王国の人々にむしろ彼らが神に背を向けてきたことに目を向けさせた。昔ユダの人々は誠実に主に従っていたが、今は見る影もない。「主はどこにおられるのですか」と求めず、空しい偶像に従う。他の諸国民は先祖伝来の偶像の神々を捨てないで拝んでいるのに、ユダの人々は先祖が崇めた創造主である神を捨てて偶像の神々を拝む。呆れ果てたことだ。

国を守るためにエジプトと同盟を結び、かつてはアッシリアと同盟を結んだが、それは結んだ国々の偶像を取り入れることにつながり霊的な姦淫となった。さらに偶像礼拝を戒めて“主に立ち返れ”と叫んだ預言者達を殺した。ユダ王国はもともとは貧富の差が少なく公正な社会だったが、主を忘れたことは公正さを失わせ、エレミヤの頃、貧富の差が激しくなり、富む者がさばきを曲げることがあった。

34-35節は富む者が何か盗まれたとき、確かな証拠がないのに貧しい人に罪を擦り付けて処罰し、それが何も問われず認められたという事件が背景にある。エレミヤは富む者に対して恐れることなく「あなたが私は罪を犯していないと言うので、今、わたしはあなたをさばく。」と批判した。だから彼は迫害を受けた。このようなユダの社会は現代社会を表す。もしエレミヤがタイムマシンで現代に来たら、今の社会も“公正さを忘れて富や力が正義の世界だ”と言うに違いない。

昔の王侯貴族のような私達の生活は、遠い貧しい国の労働者が劣悪な条件で働くことに依存する。私達の豊かさはその人達の犠牲の上に成り立つのである。けれども私達は遠いその国の労働者が犠牲になる様子を見ることはできず、彼らの犠牲の上に私達の豊かな生活があることを知らない。それは自分達には罪はないと言いながら実は罪があることだ。私達は神のみこころとは程遠く、醜い現実を覆い隠す欺瞞の社会で生活している。

しかし、だからと言ってこの社会から出て行くことは主のみこころではない。主のみこころは、エレミヤが不正が蔓延(はびこ)るユダ王国に留まり迫害を覚悟してみことばを語り続けたように、欺瞞(ぎまん)の社会に留まりながらみことばを語ることだ。何を語るべきなのか?私達も社会の不正をただすために声をあげて語るのは必要だ。NHK教育TVでドキュメンタリー“エリザベス、この世界に愛を”を見た。難民を入管で長期拘留して受け入れない頑なな難民政策に対して声を上げるべきだと思った。

ところで、今の所、私達はエレミヤやエリザベス姉のように声を上げるべきことはないようだが、私達にも語るべきことがある。それが“私には罪はないということが罪だ”ということだ。私達はその罪がよく分かる。なぜなら私達の救いはその罪を認めることから始まったからだ。新約聖書で言うと「私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です」である。だから“清い心で正しい行いをしても私達には罪があり、キリストの十字架がなければ主にさばかれても仕方がない罪人なのです”と語り続けていこう。