マタイ12:22-24,31-37,1ヨハネ1:9
“自分のことばによって義とされる幸い” 内田耕治師
イエス様が悪霊憑きから悪霊を追放すると、その人はものを言い、目も見えるようになり、群衆はみな驚いて「この人がダビデの子なのではないか」と言い出したが、パリサイ人は注目されるイエス様が気に入らなくて“イエスは悪霊によって悪霊を追い出した”と非難。彼らはイエス様を妬み、その妬みによってイエス様を悪霊呼ばわりをした。
それに対してイエス様は反論。悪霊どもを1つの国にたとえて国が分裂して仲間割れしたら国は立ち行かないように悪霊が悪霊を追い出して分裂したら悪霊の国は立ち行かない、だから悪霊が悪霊を追い出すことはあり得ないとか、魔除け祈祷師も悪霊追放をするからそんなことを言うと彼らからクレームが付くとか、悪霊追放は聖霊にみわざなのに、悪霊呼ばわりは聖霊の冒涜だと語り、聖霊を冒涜する罪を警告した。
警告は続く。「木」を人に「実」をその人が話す言葉にたとえて話す言葉でその人が良し悪しが分かるとか、「倉」を人の心「倉から取り出す物」を人が語る言葉にたとえてパリサイ人は心に悪い思いがあるから悪い言葉を話すと非難。私達も表向きは正しい適切なことに見えても実は心にある良くない思いから来る言葉を口にする。世の終わりのさばきの日にはパリサイ人も私達も語った無益な言葉について申し開きをしなければならない。「あなたは自分のことばによって義とされ、また自分のことばによって不義に定められる」だから私達は良い心を保ち、良い言葉を語るように心がけなくてはならない。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。」箴言4:23 けれども現実的に私達はたとえそのように心がけても、どうしても悪い思いが湧いてきてその思いによって良くない言葉を語ってしまう。自分はいつも良い心で適切な愛のある言葉を語ると言う人がいたら、それは偽りか、余程自分が分からないお目出度い人だ。
私達は自分の心と唇を完璧に制御できない者であり、さばかれざるを得ない者だから私達には神のあわれみが必要だ。あわれみがなければ、世の終わりには1人残らずさばかれてしまう。幸いにして私達には神のあわれみを引き出すことが出来ることばが与えられている。それは心にある悪い思いによって良くない言葉を語ってしまう自分を率直に認める罪の告白だ。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」1ヨハネ」1:9
罪の赦しはイエス様の十字架の血によってもたらされるから罪の告白はイエス様を信じることを含む。また御霊の導きによって語るものである。それは幸いなことである。世の終わりのさばきの時に、あの言葉は妬みから、あの言葉は怒りから、あの言葉は利己的な思いから、あの言葉は高慢な思いからではないかと問われたら私達は返す言葉がない。けれども、私達がそういう言葉の罪を犯す者であることを率直に認めるなら、そういう者でありながらイエス様の血によって罪の赦しを得て、義とされ、さばきに遭うことがない。これほど幸いなことはない。