エレミヤ33:1-18、へブル7:13-17、9:24-26

“理解を超えた神の計画”  内田耕治師

 

今日から待降節である。今年もクリスマスを迎える備えをしよう。代表的なメシヤ預言にイザヤ9:6やミカ5:2があるが、それらとともにエレミヤ33章もメシヤ預言である。バビロンに滅ぼされつつあった南王国のエルサレムでゼデキヤ王による監禁によって保護されていたエレミヤにみことばが与えられた。イスラエル人はその罪のゆえにバビロンに攻撃されて滅ぼされるが、その後、その罪が赦され、栄誉を取り戻し、様々な物質的繁栄を受けて回復し祝福を受けるという預言があり、それに続いてメシヤ預言が現れる。

ダビデの子孫が王になり、公正と義が行われるダビデ王朝が続くようなことが書いてあるが、歴史を見ると南王国の滅亡とともにダビデ王朝は絶えてしまい、その後、ダビデの子孫は没落し、外国の支配、外国人の王朝、祖国喪失などでダビデの子孫が王になったことはない。だから「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれない」とはこの世の国ではなく来るべき御国でダビデの子孫であるイエス様が永遠に王となることだ。それによって御国への道が開かれ、私達はイエスキリストを通して御国に入ることができる。

次に話がダビデ王朝から急にレビ人の祭司の話になる。律法によるとレビ族だけから祭司が出る。「いつまでも絶えることはない」は今後もずっとレビ人によって祭司制度は守られるかのようである。ところで動物の生贄は何のためか?それは罪の赦しを受けて心に平安を得ることである。けれども、へブル書によると、動物の生贄を献げて本当に罪が赦されるのではなく、献げても献げても罪は思い出されると書いてある。だから「いつまでもーー」は動物の生贄は罪の赦しを与える効き目がないから、空しいが気休めに献げ続けることになる。一方、十字架の上でたった1度だけ流されたキリストの血は昔も今もこれからも人間の罪を取り除くことができる。つまり約2000年前に流されたキリストの血は永遠に罪を赦し、平安を与える効き目がある。だからへブル書によると「いつまでもーー」はキリストの血の効き目が永遠に持続することと解釈できる。またへブル7章はイエス様がレビ族ではないことに解決を与える。イエス様がレビ族ではなくユダ族の出てあることを認めながら創世記14章でアブラハムを祝福したメルキゼデクという不思議な祭司の例を上げ、彼に倣(なら)ってイエス様は神が特別に立てた祭司だと言う。

その根拠が詩篇110「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である」だ。キリストは永遠の祭司である。祭司とは、神と人間の間に立ってとりなす者だ。旧約時代には人間の祭司がその役目をしていたが、人間は死があるので次々に祭司を立てる必要があった。けれどもキリストは永遠に生きておられるお方だから、いつまでも神と人間との間に立ってとりなすことができる。「いつまでもーー」はそのことを言っている。人はだれでも心に“神と会す顔がない”罪を持つ。しかし永遠の祭司キリストによって罪の赦しが与えられるから神と和解して御国では堂々と“神と顔を会す”ことができるのである。それはこの上もない祝福である。