ルカ2:1-20、1:51-52
“皇帝よりも幼子キリスト” 内田耕治師
「権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました」 これは権力を持つ皇帝でも神の国ではへりくだって低くされたイエス様を王として迎えることを表す。けれどもローマ帝国を統一し平和を確立した初代皇帝アウグストゥスは、王制を盤石にするために人々に皇帝を神として拝む制度を作った。その後、キリスト者をそれと戦わなければならなかった。彼は住民登録の勅令を出した。ユダヤ人の部族社会を尊重して一族がいる町に帰って登録させたので、ヨセフはナザレではなく遠いユダヤのベツレヘムで住民登録をせざるを得ず、身重のマリアを連れて出かけ、現地に着くとマリアは月が満ちた。でも宿屋はどこも満員。しかたなく家畜小屋を宿とし、だれも見守る人達がいない中、イエス様を産み、飼葉桶に寝かせた。皇帝アウグストゥスの絶大な権力とその権力に翻弄されるヨセフとマリアとイエス様を対称的に描いている。
だが8節からは一変する。急に主の使いが羊飼い達に現れて救い主の誕生を告げる。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。――」ミカ5:2の預言の成就で幼子が待ち望んだ王であることを表す。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」人々はローマの平和を確立した皇帝をたたえるが、皇帝は神の国の平和を確立できない。できるのはイエス様だけだ。その平和を得る「みこころにかなう人々」はイエス様を救い主として信じる人々だ。神の国では皇帝ではなくイエス様こそが本当の王なのだ。
御使いの御告げを聞いた羊飼い達は早速、ベツレヘムに行き、飼葉桶に寝る幼子を探し出し、マリアとヨセフに御使いから聞いたことを話し、神をあがめて賛美した。だれよりも先に羊飼い達がイエス様を神の国の王として信じたことには意味がある。当時、羊飼いは身分が低く蔑まれ、へりくだらざるを得ない人達だったが、そんな彼らがイエス様を神の国の王として迎えたことは、神の前にへりくだる者こそが、イエス様を王としてお迎えするにふさわしいことを表す。
また「権力のある者を王位から引き降ろしーーー」はへりくだりにくい人達も神の前にへりくだるべきことを教える。最もへりくだることが難しい人は権力を持つ人達だが、そういう人達が神の前にへりくだってイエス様を王としてお迎えすれば神の栄光が現れる。ローマ帝国でキリスト者は1世紀、2世紀、3世紀と迫害されたが、4世紀に、コンスタンティヌス帝が長い求道の末、信じてイエス様を神の国の王としてお迎えすると、ローマ帝国は寄り戻しもあったがキリスト教国に変わり、教会の堕落や教えの変質の問題はありながら聖書の教えはさらに広く宣べ伝えられた。
現代も普通の人々とともに、権力を持つ人達も救われてイエス様を神の国の王として認めることは私達の祈りの課題だ。私達には、権力者には支配をスムーズにするために政治的ポーズを取るとか、他宗教にも調子を合わすとか難しい点がたくさんあるが、その難しさを乗り越える人達が現れたら神の栄光になる。また権力がない私達にもへりくだりにくい性質はある。それが私達の弱さであるが、その弱さを神の導きによって克服し、ますますへりくだり主を崇めていけば幸いである。