マタイ2:1-18、2コリント5:21

“命を狙われた幼子キリスト”  内田耕治師

 

ヘロデはユダヤの隣のエドム人だが、ローマ帝国の後ろ盾でユダヤの王になった人物で約40年に渡る長い期間、君臨した。ユダヤ教への改宗、大規模な神殿修復事業、ユダヤの名家の娘と結婚などユダヤ人の歓心を買おうとしたが、必ずしも完璧に受け入れられていたわけではない。彼は政敵や反対派を次々に殺害する恐怖政治を行い、晩年には猜疑心が強くなり最愛の妻や息子達さえも処刑。そんな頃に東方の博士達が「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこに、」とやって来た。ユダヤ人のメシヤを待ち望む信仰を知る彼は自分の地位を奪う者として幼子の殺害を決意した。

ユダヤ人達は、暴君ヘロデを恐れてメシヤの到来を素直に喜べず恐れた。ヘロデにキリストはどこで生まれるのかと問われた祭司や律法学者は、答えたら幼子は殺され、答えなければ自分達の身が危うい。結局、自分達の身を守るため「ユダヤのベツレヘムです」と答えた。ヘロデは博士達を呼び出し「自分も礼拝する」と嘘を言い、彼らをベツレヘムに行かせ、幼子の居場所を探させた。星の導きで彼らは幼子を見つけ、黄金、乳香、没薬をささげてイエス様を礼拝。その夜、夢を通して「ヘロデのところへは戻らないように」と警告を受け、別の道で帰国した。

何も知らないヨセフにも夢を通して「エジプトへ逃げなさい。―――ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています」と御告げがあり、夜のうちにエジプトに逃亡。ベツレヘムはエルサレムに近いからヘロデが博士達を待つ時間が幼子を救った。幼子のイエス様は両親とともにエジプトに滞在。ヘロデの死後ユダヤに帰り「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」が成就。幼子がエジプトに逃げるために大きな犠牲があった。ベツレヘムの2歳以下の男の子が虐殺されたことだ。何の関りも罪もないのにヘロデの強烈な猜疑心の犠牲になった。この出来事をどう考えるのか?

何の罪もない幼子達がヘロデの罪の犠牲になったように、やがて罪のないイエス様が人類の罪の犠牲となる。この時イエス様の命が守られたのは、天寿を全うするためではなく、定められた時に人類の罪の身代わりに十字架にかかるためである。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」イエス様の犠牲によって私達の罪は赦されて私達は神の義となる、つまり救われる。それは私達にとって良い知らせ(福音)だ。幼子達の虐殺は、悲しいことではあるがイエス様の十字架を予告するような出来事だった。

「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが」エレミヤ31章の預言もそのことを言う。ここだけを読むと悲しみだけだが、その続きを読むと、希望に変わる。親達はバビロンに連れていかれる子供達ともう2度と会えないことを嘆いたが、エレミヤは子供達はやがて帰って来ると希望を語った。マタイはそれを用いて確かに罪のない幼子達が虐殺されたことは悲しいことだが、やがてその幼子達の死が予告するイエス様の十字架は凄い祝福をもたらす、だから希望があると言うのである。

だから、ヘロデによる幼子達の大虐殺という凄惨な事件の中でも、人類に希望をもたらす神のご計画は静かに進んでいたのである。