マタイ2:16-23
“ナザレ人のイエスキリスト” 内田耕治師
イスラエル人はメシヤを待ち望んでいたが、メシヤとはダビデの子孫だけでなくモーセのような預言者だとも信じて待ち望んでいた。申命記18:15「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような1人の預言者をあなたのために起こされる。―――」そう思ってモーセとイエス様を見ると、共通点が見えてくる。
モーセはファラオが命じたイスラエル人の人口抑制のゆえに殺されかけ、イエス様はヘロデ王が自分の王位を奪う者だと思ったゆえに殺されかけたが、両者とも危ない所を助けられた。ファラオの娘の子となったモーセはイスラエル人なのにエジプトの宮廷で40年も生活し、ヘロデ王から逃れたイエス様は異国のエジプトにしばらく滞在して、両者ともに本来いるべきではない所にいた。
モーセは事件を起こして命を狙われたので遠い辺境の地ミデヤンに逃れ、そこに住んで羊飼いとなり、毎日、羊の後を追う重労働に勤しんだ。エジプト滞在から戻ったイエス様はユダヤが父ヘロデに劣らず暴君のアケルラオが支配していたので北部ガリラヤのナザレに移り住んで父とともに大工仕事の重労働に勤しんだ。ガリラヤも辺境の地であり、ナザレは「何の良いものがあるだろうか」と蔑まれる辺鄙な所である。両者とも辺鄙な場所に引きこもった。
ミデヤンの40年はモーセを大きく変えた。彼は主に召された時、「わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください」と消極的だが謙遜な人になっていた。若さがあり、地位があり、知識があり、力に満ちた頃のモーセではなく、自分の弱さをよく知り、主に頼らなければ何もできないことを知るモーセを神は用いてそのご計画を成し遂げた。
ナザレに引きこもって、だれにも顧みられず、毎日、重労働に明け暮れたイエス様を神は救い主として用いた。「これは預言者たちを通して“彼はナザレ人と呼ばれる”と語られたことが成就するためであった」と書いてある通りだ。旧約聖書のどこを探しても“彼はナザレ人と呼ばれる”はないが、このみことばのようになると預言するみことばは幾つもある。
「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。――」のイザヤ53章は代表的だ。イエス様は低くされることで用いられた“モーセのような1人の預言者”なのだ。ただし主が低くされたことはモーセを超える。モーセは王子から羊飼いと人間の範囲内だが、主は神から人間とその範囲を遥かに超えるからだ。
ピリピ2章「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」イエス様が“ナザレ人と”とは、そこまで低くされたことである。そうすることによってイエス様は私達の罪からの救い主となられたのである。