エゼキエル34:23-31、ヨハネ10:10-15

“真の牧者、ダビデの子、イエスキリスト”  内田耕治師

 

イザヤ9:6やミカ5:2だけでなくエゼキエル34章もメシヤ預言の1つである。イスラエルの歴史を顧みてみよう。イザヤやミカは紀元前700年代に活動した。その頃アッシリア帝国の台頭という国際情勢の大きな変化があり、北イスラエルは滅ぼされ、捕囚の民になる者が現れた。南ユダも危うかったが神の奇跡的な介入で助かった。エゼキエルは紀元前500年半ばから600年初めのエレミヤと同じ時代でエレミヤよりも少し後に預言活動を始めた。その頃バビロンがアッシリアを滅ぼして台頭した国際情勢の大きな変化があり、南ユダ王国はバビロン帝国の僕となり、捕囚の民となる者が現れた。エゼキエルもバビロンに連れて行かれたが、そこで預言者の召命を受けて預言活動を行った。彼はエレミヤのような同国人からの迫害はなかったが、異国に暮らす者として幻や比喩を用いてみことばを語った。まず羊を過酷なし方で支配し、苦しめる「悪い牧者」を描く。羊はイスラエル人であり、牧者はイスラエルの王である。「散らされる」が繰り返し出て来るが、アッシリア捕囚とバビロン捕囚のことだ。イスラエルの王達が牧者の役目を全然果たさなかったから民は苦難を受けたのである。

だから「羊を養わない牧者たちは敵だ」とか「彼らに羊を飼うのをやめさせる」とズバリ言う。それらは北イスラエル王国と南ユダ王国の滅亡で成就した。けれども散らされたイスラエル人を祖国に「連れ戻す」とも預言する。確かに70年間のバビロン捕囚が終わって捕囚の民の子孫の一部は祖国に戻り神殿を再建したが、その後の歩みは多難であり、最後に紀元後70年再び神殿は破壊され、国を失い、また散らされた。またその他の散らされた人々は散らされたままだ。

次に強い羊が弱い羊を突き倒したり追い散らしたりするから正義によってさばく必要があると言うが、現実的にイスラエルでも他の国でもそういう問題に取り組んで正義と平和を確立する理想的な国は存在しない。けれどもエゼキエルはそんな国を造る王が現れると預言する。その王とはダビデの子孫として来る牧者である。ところでイエス様は自分のことを牧者だと言う。

「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。わたしは牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」

私達がイエス様を通して得るいのちとは永遠のいのちである。イエス様はそれを神の国あるいは御国とも言う。神の国はこの世で目に見える形では存在しないが、イエス様を信じる者のうちには存在する。それがエゼキエルが描いた理想的な国である。とすると、散らされた民を祖国に「連れ戻す」とは神に背を向けた人々をイエス様を通して神のもとに連れ戻し、神の国に招き入れることであり、神の国から天国に導き入れることである。クリスマスが近づくが、ダビデの子として良い牧者として来られたイエス様の誕生を喜ぼう。