ヨハネ18:12-27
“つまづく者を主は愛される” 内田耕治師
ヨハネ伝のペテロがイエス様を否認した記事はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書とはかなり違う。共観福音書はペテロが大祭司の家の中庭でイエス様を3度否認したことだけに焦点を当てているが、ヨハネ伝はその周辺の事柄にも焦点を当てている。周辺の事柄によってペテロの否認の意味をより詳しく描いているのである。その事柄とは大祭司アンナスともう1人の弟子の存在である。彼らは共観福音書のペテロの否認には出て来ない。兵士達はイエス様を逮捕すると真っ先にアンナスの所に予備尋問のために連れて行った。カヤパの姑であるアンナスは影の実力者だったようだ。
彼が弟子達と教えについて尋問すると、イエス様は話を逸らして弟子のことも教えのことも語らず下役を怒らせて殴られ、それでも“なぜ殴るのか”と抗議した。そんなことをすれば憎まれるのは無理ないが、そこに自分にのみ憎しみを向けさせ十字架にかかり、弟子達には指一本触れさせず守ろうとする意図が透けて見える。「1人の人が民の代わりに死ぬほうが得策だ」これは大祭司カヤパを通して示された神のご計画だが、祭司長達の狙いはイエス様だけだったことも表す。彼らはイエスさえ始末してしまえば、弟子達はバラバラになり散らされると考えていたようだ。
もう1人の弟子は大祭司の知り合いであり、あまり人を恐れない者だったようで、ためらうことなく弟子であることを公言して中庭に入った。そして大祭司の知り合いではないペテロが門の前でためらっていると、彼は召使いの女に話してペテロを入らせた。そこから躓(つまず)きが始まった。彼女は彼が弟子だと知った上で「あなたも――」と尋ねるとペテロは否定した。仲間がそばにいるにもかかわらず主を否認するとはどうしたことか?仲間と比較したら惨めだ。1回躓くと、2回、3回と続き、鶏が鳴いてイエス様が言った通りになった。ヨハネ伝は共観福音書以上に情けないペテロの姿を描いている。
けれども、ペテロはその後、脱落しないで弟子であり続け用いられた。父なる神が彼を選んでイエス様が守ったからである。初代教会で権威ある使徒のペテロについて情けない躓(つまず)きがあったことをあからさまに書いたヨハネ伝を読んでショックを受けた人達がいたかもしれないが、むしろ、そんなペテロが後で大きく用いられたことが同じような弱さを持つ人々に希望や励ましを与えたようだ。現代の日本でも信教の自由がありながらペテロと同じように人を恐れて隠れキリシタンのようになるキリスト者がいるが、そんな人達にとってもペテロは希望と励ましを与えてくれる。
この世では恐れず進んだ者は評価され、恐れて敵前逃亡した者は評価されない。過去の失敗が後々まで自分の評価に影響することがある。しかし初代教会はこの世とは異なり、むしろ弱さを抱えたペテロを見捨てないで強くして用いて下さった神のみわざをほめたたえた。このことは教会のあるべき姿を現している。互いの信仰を比較して“強いだの弱いだの”批評するのではなく、弱い者を強くし、主から離れた者を主に立ち返らせる主のみわざをほめたたえる。今、教会を建て上げている私達はそういう教会を目指していこう。