ヨハネ19:13-22

“全人類の王ナザレ人イエス”  内田耕治師

 

ヨハネ伝のイエス様の裁判から処刑に至る記事は、ピラトを中心にして書かれている。ピラトは、ユダヤ人を支配される側であるにもかかわらず自分達を神の選民とし他民族は汚れた民とし、何が何でもイエス様の死を要求する不遜で狂信的な人々と思った。しかも彼らは「この人を釈放するなら、あなたはカエサルの友ではない」と自分の弱みを突いてくる。彼は手に負えなくなり正しくさばくことを放棄し自分の保身を考えた。

「おまえたちの王を私が十字架につけるのか」彼はやりたくない仕事をやらされる思いで“もう勝手にしろ”とユダヤ人の要求を受け入れてイエス様を十字架にかけた。けれども1つだけユダヤ人の言いなりにならないことがあった。初め「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」の罪状書きにしたら、ユダヤ人の祭司長達は「ユダヤ人の王と自称した」と書き換えを要求したが、ピラトは「私が書いたものは、書いたままにしておけ」とその要求を突っぱねた。特に理由はなかっただろうが、その罪状書きは彼の思いを遥かに越えてイエス様が神の国の王であることを表していた。しかも、その罪状書きはへブル語だけでなく、ラテン語、ギリシャ語で書かれ、当時の世界のすべての人が読むことができた。そのこともピラトやユダヤ人の思いを遥かに越えてナザレという片田舎から出て来たイエス様が全人類に与えられた神の国の王であることを表していた。それは創世記12章でアブラハムに与えられた約束「地のすべての部族はあなたによって祝福される」の実現だ。

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。“木にかけられた者はみな、のろわれている”と書いてあるからです。それはアブラハムへの祝福がキリストイエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。(ガラテヤ3:13-14)」

ユダヤ人の処刑法は石打ちで十字架刑はローマのものだ。ピラトがイエス様を十字架にかけたことで「木にかけられた者は――」は成就し、人間が罪ののろいから解放される道が開かれた。しかも、その祝福は全人類に開かれている。ピラトは神を知らず、罪がないことを知りながらイエス様を処刑した悪い裁判官だ。けれども神は彼をご自身のご計画のために用いた。「すべてのものを、主はご自身の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた(箴言16:4)」ピラトがしたことは、弟子達にとって主の十字架は忌まわしいことだ。けれども、弟子達は後でその中に深い神のご計画を見い出し、そのご計画に従い、宣教のビジョンを持ち、そのために自身をささげて大きな働きをすることができた。

このことは歓迎できない悪いことの中に神のご計画を見ていくことを教えてくれる。私達もたまに“なんでこんなことが?”と思うようなことに遭遇する。そんなとき“どうして、どうして?”と呟きつづけたら懐疑的になり素直に神を信じれなくなる。けれども、歓迎できない悪いことの中にある神のご計画に目を向けるようになると、呟きを乗り越えてビジョンや使命が与えられ、神の導きに従うことができるようになる。そういう歩みをしていただければ幸いだ