ヨハネ19:28-30
“キリストは死んで豊かな実を結ぶ” 内田耕治師
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら豊かな実を結びます」イエス様の死は私達のためにすばらしい実を結ぶ出来事だった。死の間際にイエス様は兵士達から酸いぶどう酒を舐めさせられた。4つの福音書すべてにある記事だが、ヨハネだけ詳しく「聖書が成就するために」の記述がある。その聖書とは詩篇69篇だ。
それは故もなく辱められ苦しめられる迫害される者の歌だが、同じようにイエス様は罪がないのに辱められ苦しめられた。「わたしは渇く」は,詩篇69:3「私は叫んで疲れ果て喉は渇き、目も衰え果てました」の成就、酸いぶどう酒は詩篇69:19-21「――私が渇いたときには酢を飲ませた」の成就。それらは死にゆくイエス様に屈辱を与えたことだ。
ヨハネ伝だけに「ヒソプの枝」が出て来る。ヒソプは出エジプトでイスラエル人が子羊の血を家の鴨居と門柱に塗る時に用いたものだ。過越の夜、子羊の血があるイスラエル人の家には死者がなかったが、その血がないエジプト人の家ではすべての初子が死んだ。頑ななファラオはやっと砕かれてイスラエル人を解放した。ヨハネでは子羊はキリストを表す。イエス様は酸いぶどう酒を受けると「完了した」と言って息を引き取った。キリストの血によって救いの道は完成したのである。
ところで詩篇69篇には「いのちの書から消し去られるように」と敵に対する衝撃的な復讐の祈りがある。聖典でありながら旧約にはこの他にも受け入れ難い記述がたくさんある。一方、新約ではイエス様が「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです」と真逆の祈りをした。これは聖書解釈の基本を教える。すなわち旧約に示された神のみこころは未完成で、完成した神のみこころはキリストが現れる新約にあるということだ。たとえば、復讐の祈りはダビデの偽りのない心の現実であり、それが私達にもあることを認めるがそれは未完成な姿であり、イエス様のように迫害する者をも神に赦されるように祈ることが完成した姿である。
出エジプトとキリストの十字架の関係も同じである。モーセは民の罪のために神の書物から自分の名を消す覚悟をしたが神はそうさせなかった。一方、キリストは神のみ旨によって人類の罪のために十字架にかけられ呪われた。出エジプトはイスラエル人のためだけであり全人類のためではないので世界的な広がりはない。一方、キリストの十字架は全人類の救いのためだから世界的な広がりがある。
出エジプトは社会的な抑圧からの解放であり霊的、内面的な深さはない。一方、キリストによる救いは私達を罪から解放するから霊的、内面的な深さがある。出エジプトに示された神にみこころは未完成だが、キリストの十字架は完成した神にのみこころを示した。西暦はそのことを表す。紀元前はキリスト以前と言われるが神のみこころはまだ未完成だったが、キリストが十字架で死んでくださって神のみこころは完成した。それがキリストが死んで結んだ実だ。2021年に生きている私達は神のみこころが完成した恵みの時代にいる。そのことを覚えながら受難週を迎えよう。