ヨハネ19:1-16、2コリント5:21

“見よ、罪なき神の子を”  内田耕治師

 

ユダヤ人はイエス様をローマに反逆を企てるユダヤ人の王だと総督ピラトに訴えたが、ピラトはイエス様にそんな罪はないことが分かっていた。でも、ユダヤ人が暴動を起こすことを恐れた彼は無罪宣告せず祭りの慣わしを用いる釈放を試みたがダメだったので、今度はイエス様を暴行してとても王と思えないような惨めで哀れな姿にして「見よ、この人だ。」と茨の冠のイエス様を見せた。さらに「この人に罪を見出せない」と言ったが、それは彼の思いを遥かに越えてイエス様が罪のない神の子であることを表していた。

一方、ユダヤ人は「律法によれば、この人は死に当たる、自分を神の子としたのだから」とイエス様が自分を神と等しくする冒涜罪を犯したとして死刑を要求した。けれどもイエス様は実際、父なる神のひとり子であり十字架で救いの道を開こうとしていた。だから彼らも何も知らないでその思いを遥かに越えた神のご計画を行おうとしていた。ところで、私達はこのユダヤ人やピラトの実例を通して私達にも彼らと同じ罪があることに気づかされる。

唯一の神を信じ偶像を排除し、選民を自負して多民族を差別するユダヤ人は狂信的にイエス様を断罪した。その狂信性は現代でもヨーロッパでよくテロを起こす過激なイスラム原理主義者や戦前、天皇崇拝で戦争に突っ走った日本人に見られ、また偏見に凝り固まって何でも決めつけた見方をする人にも見られる。イエス様を十字架にかけた狂信的ユダヤ人と同じような要素が私達の内にも存在する。それが私達の罪である。

一方、ピラトはイエス様に対して生きるか死ぬかの鍵を自分が握ると権威を誇示したが、全く命乞いをしないイエス様からあっさりと肩透かしを食らい、ユダヤ人からは「この人を釈放するのならカエサルの友ではない」と弱みを突かれてオロオロするばかり。いくら正しいことでもイエスという男を助けたために自分の首が飛ぶのではたまったものではないと結局イエス様を十字架にかけることにした。彼は正義のために自分を犠牲にすることができなかった。私達も自分が犠牲を払う必要が分かるとすぐに投げ出すのではないか。私達にもピラトと同じ罪がある。

だから私達もユダヤ人やピラトと同じようなことを人や社会に対して行うことでイエス様を十字架にかけている。けれども、幸いなことに私達はそういうことをしていても神の恵みのゆえに救いを受けることができる。どのようにしてか?自分にも彼らと同じ罪があると認めることによって。しかし、それはあのユダヤ人やあのピラトと同じでもいいということではない。彼らのようにならないよう努力することは大事であり聖書もそれを勧める。彼らと同じにならないように心がけながら、彼らと同じ罪があることを率直に認め、彼らとともに自分はイエス様を十字架にかけたと信じて私達は救われるのである。世の中には残念ながらそのことを全く知らない人達がたくさんいる。だから、だれでも罪ある者であることとその罪のためにイエス様が十字架にかかられたことを伝えていこう。