ヨハネ20:1-18、16:7
“復活の喜びを伝える足は美しい” 内田耕治師
週の初めの日マグダラのマリヤは早起きして墓に行くと、墓の入り口の石が取り除けられ、イエス様の遺体がないのでビックリしてペテロと主が愛するもう1人の弟子に知らせに行った。2人の弟子は走って墓に向かった。もう1人の弟子が先に着き、墓を覗いたが中には入らなかった。遅れて来たペテロは墓の中に入り亜麻布はあるが遺体はないことに気づき、もう1人の弟子も中に入って“見て信じた”。彼らが主の復活を信じたような書きぶりだが「聖書をまだ理解していなかった」によると、そうではない。彼らは主の遺体がないことを確認すると、さっさと家に帰った。
一方、マリヤはまた墓に戻って来た。イエス様は彼女にとって大切な存在だったので悲しくなり、そこに留まり泣き明かしていた。ペテロももう1人の弟子もマリヤもエマオに向かう2人の弟子と同様、聖書が分からず信じていなかった。そんな彼女のところにまず白い衣を着た2人の御使いが現れ、彼女に問いかけた。次にイエス様が現れ「マリヤ」と声をかけた。彼女は初め園の管理人かと思ったが、振り向いてやっとイエス様だと分かり「先生」と叫んだ。彼女は泣き明かし、イエス様を「私の主」と言い、遺体さえ「引き取る」と言うほど強くイエス様に依存していた。
しかし主は「わたしにすがりついていてはいけません」と彼女を突き放した。神は私達を突き放すことをたまにする。代表的なものが死だ。死によって親しい関係も強引に断ち切られる。この場合は主の復活後すぐに来る昇天だが、それも親しい関係を断ち切る神のご計画だった。主は彼女がそれを受け入れるよう導いたのである。またそれは皆が受け入れるべきことだから主は彼女に兄弟たち(弟子達)のところに行ってもうすぐ昇天することを伝えさせた。「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」
イエス様が復活した後すぐに昇天することは何を意味するのか?弟子達はこれまでイエス様から手取り足取りの指導を受けて歩んできた。それは恵みだったが、これからはもっと凄い恵みが始まる。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです」益とはイエス様が去ることによって助け主である御霊が遣わされることだ。また「聖書をまだ理解していなかった」とは昔を振り返って書いたことだから、主が昇天していなくなることで弟子達は聖書を理解するようになった。すなわち、主がいなくなることで弟子達は本格的にみことばと御霊に拠り頼む歩みをするようになった。変な言い方かもしれないが、イエス様がいなくなったことが弟子達にとって祝福だったのである。ところで、目に見えるイエス様を知らない私達は、みことばを通して神を知り、みことばを通してイエス様を知り、みことばを通して信仰を学んだ。私達は初めから、みことばと御霊に拠り頼んで歩んでいる。だからイエス様から直接、教えを受けた2000年前の弟子達を羨ましがる必要はない。かえって私達のほうが幸いなのである。聖書のみことばによって見ないで主を信じていることが凄い恵みであることを覚えて、みことばを宣べ伝えていこう。