ヨハネ20:30-31
“キリストこそ、いのちへの道” 内田耕治師
イエス様はたくさんのしるしを行ったがヨハネは、31節の目的に適う7つのしるしを厳選して記した。その目的は2つある。1つ目はイエスが神の子キリストであることを示すためである。ヨハネは神の子について詳しく書いている。イエス様は初めから神とともにあり、神である。神が人となられたお方である。神を説き明かすひとり子の神である。私達の罪のために十字架にかけられた神のひとり子である。父なる神と等しい神の子である。これらのことが「イエスは神の子」に集約されている。私達はそういう神の子キリストを信じている。
2つ目は信じてイエスの名によっていのちを得ることだ。このいのちとは肉体の命ではなく霊的いのちだ。人間はだれでも1度は死ぬ。平等に確実にやって来る死をだれもが恐れる。まただれでも人間である以上、肉体の命はあっても罪のゆえに霊的に死んでいる。けれども、私達はイエス様を信じたら罪が赦されて霊的いのちが与えられる。「いのちを得る」が文法的に現在形とは今この世で霊的いのちが与えられることだ。ヨハネはこの霊的いのちも永遠のいのちと言う。
6:40「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです」
「終わりの日によみがえらせる」が未来形とは世の終わりに滅びない復活のからだが与えられることだ。けれども「永遠のいのちを持つ」は今日の箇所と同様、現在形だから今この世で霊的いのちを得ることだ。そして、このいのちがあれば、やがて世の終わりに復活のからだが与えられる。
霊的いのちが与えられる箇所は他にもある。ルカ15章の放蕩息子のたとえ話で「この息子は、死んでいたのが生き返った」は霊的に死んでいた者に霊的いのちが与えられたことであり、エペソ2章「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」は罪のゆえに霊的に死んでいた人が、主を信じて罪が赦され霊的いのちが与えられることだ。ピリピ3章ではそれを天に国籍があることだと言う。
人間は必ず肉体の死を迎えなくてはならないが、主を信じる私達はイエスの名によって霊的いのちが与えられているから、やがて世の終わりには復活の体として永遠のいのちが与えられる。多くの人達が死を恐れる中、私達は神の前に永遠に生きるから死を恐れる必要はない。この世から去る寂しさはあるが自分の存在がまったく無に帰する恐れはない。だから多くの人達にキリストを紹介することで希望をもたらすことができる。
キリストや天国について多くの人達がまったく無関心だ。けれども彼らは顔には出さなくても心の底では刻々と近づき自分の力ではどうにもならない死を恐れている。一方、私達はキリストこそが永遠のいのちへの道であると確信してその道を歩んでいる。それは他の人々にはない私達だけの特権だ。この社会の中で私達は非常に小さな存在であるとしても、そういう凄い特権があることを喜びとし、誇りとして歩んでいきましょう。