ヨハネ20:19-23
“もう1人の助け主・聖霊を受けなさい” 内田耕治師
ヨハネ20章「聖霊を受けなさい」はペンテコステの聖霊降臨の予告ではない。その予告はルカ24章「――いと高き所から力が着せられるまでは、都にとどまっていなさい」、使徒1章「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられる」である。使徒1章「―–―-地の果てまで、わたしの証人となります」は世界宣教の予告、使徒2章「―–―-皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに他国のいろいろなことばで話し始めた」は聖霊降臨の現象である。
ヨハネは主の復活後のことで記述が終わり聖霊降臨のことは何も書いてないが、他の福音書よりも遥かに多く、しかも十字架の前から聖霊が与えられる予告がある。最初の予告は7章でイエス様が内密にエルサレムの仮庵の祭りに行った時である。「わたしを信じる者は、―――-生ける水の川が流れ出るようになる」これは御霊のことだが「イエスはまだ栄光を受けていないので御霊はまだ下っていなかった」これはやがて聖霊が与えられる予告だ。14、15、16章の長い説教でイエス様は、もう1人の助け主という言い方で聖霊がもうすぐ来ることを繰り返し予告した。主は自分がもうじきいなくなるので、もう1人の助け主に弟子達を任せるということだ。
助け主である御霊の働きは要約すると人々にその罪を認めさせ、主のもとに導き、主を信じる者に主の教えを思い出させ、それを記録できるように助け、また主を信じる者のうちに住むことである。そういう働きがなされることで宣教は進む。ルカは聖霊が進める宣教の目に見える現象と歴史に焦点を当てているが、ヨハネは宣教を進める御霊の目に見えない働きに焦点を当てている。たとえば、罪の赦しはイエス様の血によってなされることだが、御霊が罪を認めさせなければ赦しの必要性が分からず主に導かれないから、罪の赦しは御霊の働きでもある。
主は弟子達に息を吹きかけた。創世記2章で神は大地のちりを集めて人を形造っただけではただの物体だったが、それにいのちの息を吹き込むことで初めて人は生きるものになった記事を元にして人間はただ肉体の命があるだけでは罪のゆえに霊的に死んでいて自分や人の罪が赦される必要性が分からない。けれども聖霊の息を吹き込むことで人は罪の赦しを受けて霊的に生きる者となり、他の人も霊的に生きるために罪の赦しが必要なことが分かり、そのためにみことばを伝える者に変えられることを言っている。
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦されずに残るなら、そのまま残ります」罪を赦すのは私達ではなく聖霊なのに“私達が赦すような言い方”だが、それは聖霊がそうするためには、私達がだれかとかかわってみことばを伝えないと聖霊は働くことができないし、みことばを伝えるためには良い関係を持つ必要があることを表している。マタイはそれを「何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ」と表現する。小さな私達だけれども私達には主の大きな期待がかかっている。でも、心配する必要はない。宣教は自分ではなく聖霊がするものだから。私達としては、与えられた人達と良い関係を保ち続けよう。