ヨハネ21:1-14

“舟の右側に網を打ちなさい”  内田耕治師

 

イエス様の復活後、弟子達は故郷のガリラヤに戻り、漁師の仕事をした。マタイ、マルコ、ルカには主の復活後、大宣教命令があり、宣教のために備えたり待機したりする様子が描かれているが、ヨハネには宣教命令も宣教のための備えも待機する様子も描かれていない。一見宣教の情熱が失せたような感じがするが、彼らは女性達から聞いた御使いのことばに従ってガリラヤに帰ったのだから、そういうことではない。むしろ、かつて主に召されたガリラヤに戻ったことは初心に帰ることであり、漁師の仕事そのものが宣教のために彼らの信仰を整える準備だった。だから漁は宣教を表し、捕れた魚はみことばを伝えて救われた人達つまり宣教の実を表す。

「その夜は何も捕れなかった」それはみことばを伝えたけれども救われる者が起こされず宣教の実を結ばなかったことを表す。宣教に携わる者は必ずそういうことを経験する。しかし“こんなにみことばを伝えたのに実が結ばないから、もう無理だ”と諦めるようでは牧師、宣教師は勤まらない。宣教には忍耐が必要である。だから一晩中、頑張っても一匹も捕れなかったことによって弟子達はかえって宣教の忍耐を学んだのである。

明け方、疲れて諦めかけていた弟子達は岸にいるイエス様から「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」と言われた。そのとき彼らはその人がイエス様だと分からなかったが、その声に聞き従って網を打って多くの収穫を得ることができた。もし声を聞いたのに“一晩中頑張ったのにダメだったから無理だ”と決めつけていたら収穫はなかった。宣教とはどこまでも可能性を信じることから始まることを学んだのである。また彼らは、主だとは知らないで主の声に聞き従うことができたから彼らの信仰は「見ないで信じる者は幸い」の通りに成長していた。

大漁の後,弟子達は「舟の右側に」と言った方がイエス様であることが分かった。最初に主が愛された弟子が気づき、次に彼が言ったことを聞いたペテロは上着をまとって湖に飛び込んで主のもとに駆け付け、そして他の弟子達は舟を漕いでたくさんの魚を岸に持ってきて、みんながイエス様との3度目の再会を喜んだ。大量の魚はあったが救われた人はまだいなかったから、その時の大漁とは豊かな宣教の実を得る幻である。153匹は当時の人々が知っていた民族の数だから、ユダヤから始まった宣教はやがて世界に広がり、すべての民族から救われる者が起こされる世界宣教の幻である。

その時イエス様は弟子達と朝食を食べるために魚を焼くための炭火やパンを用意していた。弟子達は主とともにいることを喜び、大量の魚を見ながら宣教の幻を分かち合い、ともに食事をした。その交わりは教会を表す。もう少しで主は昇天する頃だったから教会とは“こういうものだ”と教えたのである。今の私達も目に見える主はいないが、みことばによって主がともにおられることを信じて喜び、宣教の幻を分かち合い、食事の交わりをする。残念ながら今はコロナ禍で食事はあまりしないが、収束すれば皆で食事の交わりをするつもりだ。なぜなら、それが主が教えた教会のあり方だからである。