マタイ10:34-39、へブル13:7
“主のために自分を捨てて得るいのち” 内田耕治師
「わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました」家族に剣をもたらすとは“本当にイエス様を愛するのか”という私達への問いかけだ。「家の者たちがその人の敵となるのです」進んで家族を敵に回す必要はないが、信仰を貫こうとすると家族の者が敵となることもある。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は―――」本当にイエス様を愛するなら、父や母、息子や娘よりも愛する。それがイエス様にふさわしいことだ。
「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」イエス様にふさわしい者とは、自分の十字架を負い、主のために自分を捨てて従うことができる者である。私達は常に主のために自分を捨てることができるか問われている。私達は“あなたを愛します”と言いながら主のために自分を捨てることがなかなか出来ない者であるが、主はそんな私達を見捨てることなく愛をもって導き続けて下さる。弟子達を見れば、それが分かる。
福音書の弟子達はどう見てもイエス様にふさわしい者ではなかった。彼らは主のみこころに適わないことをしばしば行いイエス様を怒らせガッカリさせたが、見捨てられることなくイエス様の弟子であり続けた。同じように自分のことを考えると、欠点だらけ恥ずかしいことだらけであるが、キリスト者であり続けている。なぜなら、主にふさわしいとは、私達をさばく基準ではなく、私達が目指すべき目標だからだ。その目標から私達がどれだけ遠く離れていても、その目標に目を向けていれば、主は私達を見捨てることなく愛をもって導き続け、私達がその目標を持ち続けるために、主は“本当にイエス様を愛するのか”と問い続ける。
それから聖書は私達にその目標を示すだけでなく、その目標を達成することも教えている。「わたしのために自分のいのちを失う者はそれを得るのです」その目標の達成とは「いのちを得る」ことである。この箇所で「いのち」とは人生や命や自分、天国のいのちも含む広い意味の言葉である。だから「自分のいのちを失う」は広い意味で自分を捨てることであり、「いのちを得る」とは天国のいのちに基づいた祝福である。聖書は主のために自分を捨てた例を紹介する。弟子達やパウロなど後で使徒と呼ばれる人達だ。彼らが「自分のいのちを失う」とは殉教であり、「いのちを得た」とは天国の祝福である。
初代の信者達は彼らの生き様を見て励ましを受けた。「神のことばをあなたがたに話した指導者達のことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。」ただし今の私達は彼らと同じように殉教するわけではない。彼らが殉教することは神の導きだったが、今の私達には私達なりに主のために自分を捨てる道があり、主はその道を用意しておられる。大事なことは自分に用意された道を私達が見出すことだ。その道は簡単には見出せずかなり時間がかかるかもしれないが、神は必ずその道を用意している。だから時間はかかっても回り道をしても、その道を見出し、主のために自分を捨てて「いのち」を得ていただきたい。