エレミヤ18:1-12,ローマ9:19-24

“主は陶器師、私たちは土の器”  内田耕治師

 

主の指示によってエレミヤが陶器師の家に行くと、陶器師はろくろを回して気に入らない器を壊して気に入る器に作り替えていた。その時、エレミヤにみことばが与えられた。「陶器師」は主なる神を、「粘土」はイスラエル人を、陶器師が器を作り替えるために壊したことはイスラエル人が神の前に“怒りの器”であることを表していた。

エレミヤがいた南王国では偶像が蔓延り、まことの神から離れ、国が乱れ、バビロン帝国に狙われていたが、そんな南王国を見てエレミヤは主に立ち返るべきことを語っていた。主はイスラエル人に悔い改めを迫りながら最終的な怒りを下すことは控えていた。ところが「私たちは自分の計画にしたがって歩み、それぞれ頑なで悪い心のままに行います」イスラエル人は意に解すことはなく主が喜ばない歩みを続ける非常に頑なで手に負えない人々だった。

ところで私達も含めた現代人はこのイスラエル人と同じではないか。私達は神の前には罪ある者であるが、現代は人間中心主義が蔓延り、神が分からず、罪と言ってもまったく分からない人達がほとんどで自分達の思いのままに歩んでいる。そんな私達はイスラエル人と同じように“怒りの器”である。けれども「滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれた」私達はすぐに神の怒りを受けて滅ぼされるわけではないから“あわれみの器”でもある。

エレミヤ書には“あわれみ”の言葉がないが、ローマ書は今の私達に対して神のあわれみを率直に語っている。神が私達をあわれんでいるから寛容に耐え忍んで、私達が悔い改めるのをじーっと待っておられる。「栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器」私達はあらかじめ生まれる前から“あわれみの器”と定められていた。それは言い換えると人間である以上、だれでも生まれながらに神の前に罪があることである。

それには目的がある。もう少し後に「ご自分の豊かな栄光を知らせるために」とあるが、栄光を知らせることが目的である。では、私達に知らせて下さる「栄光」とは何か?それはキリストの福音である。だから栄光を知らせるとは私達がキリストの福音を伝えるようになることである。けれども、そのためには、私達がまず自分が神の前に罪がある“あわれみの器”であることを認めなくてはならない。

キリストは私達の罪の身代わりとなるために十字架にかかられた。けれども、もし私達が自分には罪がないと言い張るならキリストの十字架の意味がなくなる。だから私達は神があらかじめ“あわれみの器”として召し出された者である。神は陶器師であり、私達は神が作り替えたいと願う“怒りの器”だったが、キリストの福音を伝えるために神は私達を“あわれみの器”として召し出された。この“あわれみ”と“キリストの福音”を、私達だけでなく、もっと多くの人達に知らせていこう。