マタイ10:16-25
“狼の中でもキリストの羊は賢く素直” 内田耕治師
ペンテコステから宣教を始めた弟子達は大胆にみことばを語ると投獄され議会で尋問されたが、御霊に導かれて語るべきことを語ることができた。また主を信じた者は他の家族に迫害され人々に憎まれたりしたが「最後まで耐え忍ぶ人は救われる」に力づけられて宣教を続けた。ステパノの殉教から始まったエルサレム教会の大迫害で信者達はユダヤやサマリヤに散らされたが、散らされた先で福音を伝え、宣教は前進した。それはみことば通りである。
一方、迫害されることはなく社会で多数派であり存在感があるキリスト教国の信者は「狼の中の羊」ではなくなっている。“引き渡されたり、むち打たれる”ことはない。家族がみんな信者だと「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、――」を読んでもピンと来ない。「わたしの名のためにすべての人に憎まれる」や「別の町に逃げなさい」を読んでも自分とは関係のないことと思い、このみことばからどんなことを学び、どんな励ましを受けるのか疑問だ。
けれども、社会で少数派である私達日本の信者は幸いにもキリスト教国の信者よりもこのみことばをより身近に自分のこととして感じることができる。私達はまさに「狼の中の羊」だ。私達はもともとイエス様を牧者として従う羊であるが、狼がいるこの世では羊の素直さだけでなく蛇のような賢さが必要だ。その賢さとは何か?「人々には用心しなさい」用心すべき人達とは、私達の信仰に敵対する人達だ。また用心するとは“危ないから避ける”のではなく“福音を伝える機会が来た時のために備える”ことである。
この箇所は、その時には御霊が話すことを教えてくれるから心配する必要はないと教える。でも、それは備える必要がないという意味ではない。1ペテロ3:15「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」私達が普段からみことばを心に蓄えておけば、その時が来たときに御霊が適切なみことばを思い出させて語れるようにしてくれる。日本では家族の中でたった1人のキリスト者という場合が多いから自分の信仰に敵対する人達の存在をキリスト教国の信者よりも身近に感じる。そういう人達に時が来たらみことばを伝えることを目標として聖書を学んでいる。これが狼の中の羊でありながら持つ蛇のような賢さである。
今の日本では初代教会のように迫害されたからと言って別の町に逃げることはない。同じ所に留まり、同じ人達のために祈り続けるが、主はもっと多くの人々のために祈ることを教えている。「人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません」世界にはまだ福音を1度も聞いたことがない人々がたくさんいるから、そういう人々のために祈る必要性がある。私達は遠い世界に行くことはできないが、宣教師は行けるから宣教師を背後から祈りで支えることで私達も世界宣教に関わることができる。私達はこの社会では小さく弱い存在でも、信仰においては大きな幻を持って祈る者となれる。これも狼の中の羊でありながら持つ蛇のような賢さである。