マタイ10:40-42

“小さな私たちから広がる祝福”  内田耕治師

 

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」「あなたがた」とは弟子達、現代なら私達。「わたし」はイエス様。「わたしを遣わされた方」は父なる神。だから私達を受け入れる人はイエス様を受け入れ、父なる神を受け入れるのである。

「受け入れる」は弟子達の伝道旅行が背景。伝道旅行に出かけた彼らには大抵、彼らを受け入れ泊めてくれる人達がいた。彼らを受け入れた人達はただ寝泊りする場所を提供するだけでなく、彼らからイエス様の教えを聞いた。初代教会の頃も巡回伝道者は旅をして同じことをしていた。すなわち「受け入れる」とは弟子達や私達をキリスト者として受け入れ福音を聞くことを意味する。

私達をキリスト者として受け入れたら神からの報いを受けることができる。「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。-–」キリストを信じる私達を受け入れる人は、私達が受ける報いと同じ報いを受ける。その報いとは永遠のいのちである。

「わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの1人に1杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」「小さい者」とは弟子達つまり私達だ。「1杯の冷たい水」水が豊かな今の日本に住んでいる私達には、水1杯くらいは大したことに思えないが、熱くて乾燥し水が貴重だった昔のユダヤでは水1杯をあげることは大きなことであり、時の権力者や大金持ちに与える場合、見返りを期待して“どうぞどうぞ”と提供したであろう。

けれども、この世の富を捨てて主に従った弟子達という「小さな者」に1杯の冷たい水を飲ませる場合、見返りなど期待できないからただキリストの福音を目当てにそうすることになる。そういう人こそ永遠のいのちを受けるにふさわしい。それは現代も同じである。私達はそういう人を祈って待つほかはない。けれども、私達のうちにあるキリストではなくキリスト以外のものに興味を持つ人々が集まることが多い。たとえば人柄や趣味、能力や賜物、もしあれば地位や財産など。

人々がそういうものに関心を持つことを私達は否定できないし、それによって教会に来たり導かれたりする人達もいるから私達は出来る範囲で期待に応えようとする。けれども期待に応えていればいいということではない。キリスト以外のものではなくキリストそのものに目を向けるようになってほしい。そのために何ができるのか?弟子達のように主のために仕事や家族や財産を捨てることか?そういうことではない。

私達なりに心からキリストを愛していることを示していくことだ。それはキリスト以外に持っているいろんなものを捨てることではなく、それらを生かしながら一番大事なのはキリストであることを示していくことだ。それをどのように示していくかはそれぞれに与えられた課題だから、いつもその課題を心に留めて歩んでください。