2テサロニケ2:4-8、申命記4:27-31

“神が立てられた僕である国”  内田耕治師

 

第二次大戦は日本にとって恥ずかしい歴史だがドイツのワイツゼッカー氏の“過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になる”の通りに私達は忌まわしいことであっても過去を引き受けなくてはならない。ところで、あの時代にキリスト者や教会はどうしただろうか。国は人々を戦争に向かわせるために力で従わせるだけでなく、国のほうから崇めるものを出してそれを人々に半ば強制的に崇めさせて精神を統一しようとする。それは主の再臨の前に現れる不法の者と似ているが、歴史的に国は不法の者と似た存在を生み出してきた。

日本ではそれは天皇を崇め神社を参拝することだった。国はそれを国民儀礼として事実上、天皇を神とする国家神道を強制し、信教の自由は条件付きだった。そんな中でもキリスト者や教会は真の神だけを神とすべきだったが、残念ながらごく一部の者達がそうしただけで大半の教会は国の宗教政策に従い、情けない挫折の歩みをした。美濃ミッション事件では偶像礼拝だとして神社参拝を拒否した人達をかえって主要な教団の牧師は“迷惑なことをしてくれた”と批判し、後で教団として美濃ミッションにレッテルを貼った。

当時、日本の支配下の朝鮮でも国は神社参拝を強制したが、朱基徹牧師は反対した。すると日本の主要教団のトップが神社は宗教ではないから参拝するように勧めたが、彼は神社参拝は明らかに偶像礼拝だとして拒否した。その後、朱基徹牧師は投獄されて拷問を受けて殉教した。けれども朝鮮の教会は神社参拝を受け入れてしまった。戦争中、日本の教会は君が代や宮城遥拝をやらされて情けない状態だったが、そんな恥ずかしい過去があったにもかかわらず日本の教会は存続を許された。

そんな日本の教会の歩みをイスラエル人は表している。申命記4:15-26は約束の地に入る前のイスラエル人に“偶像に気をつけろ”と戒めているが、4:27-28は彼らが約束の地に入ると堕落し散らされて偶像礼拝に陥ることを預言し、4:29-31は散らされた彼らが再び主を探し求めて、主に立ち返ることを預言している。「しかし、そこから、あなたがたがあなたの神、主を探し求め、心を尽くし、いのちを尽して求めるとき、あなたは主にお会いする。終わりの日に、―――あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従う。」

イスラエル人と同じように神は日本の教会を見捨てなかったし、今後も神は私達を見捨てない。たとえば、イエス様を信じたのに教会から離れ周囲の圧力で偶像に手を合わせて人達や、離れていないが人を恐れて偶像に手を合わせる人達など現実のキリスト者の歩みはスムーズではないが、あわれみ深い神は選んだ者を見捨てないから、たとえスムーズでない歩みをしても主は見捨てず本来の歩みに立ち返るよう導いてくださる。だから、たとえ自分に恥ずかしいことがあっても見捨てず続けて期待する神のあわれみ深さを心に留めていこう。