マタイ11:27-30

“疲れた人を休ませるキリスト”  内田耕治師

 

イエス様の当時、ユダヤ人は律法を忠実に守るために律法の細則である言い伝えを厳格に守ることで非常に窮屈な生活を強いられ、しかも守らない人達をさばかざるを得なくなり、言い伝えは重荷となり、それを守ることに疲れを覚えていた。けれどもイエス様は言い伝えの廃止や変更などユダヤ教の改革を主張するのでなく、ただ「疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」と招き“イエス様のくびき”を負う新しい生き方を勧めた。

現代には社会のシステムと価値観があり、それらも私達には重荷になり疲れを覚えることがあるが、聖書は社会の改革を主張せず、今も私達を「疲れた人、重荷を負っている人はーー」と招き、“イエス様のくびき”を負う新しい生き方を勧めている。「くびき」は頑丈な横木で造られ2頭の牛につけて車や鋤を引かせる道具である。旧約では「くびき」は服従や苦難などの意味があるが“イエス様のくびき”は負いやすく軽い。その理由はイエス様が「柔和でへりくだっている」からである。

イエス様の“へりくだった柔和さ”とは、上に立つ者が下にいる者をこき使い、強い者が威張り弱い者を見下すこの世の価値観とは逆さまで、上に立つ者が僕のように皆に仕え、たとえ強くてもへりくだって威張らず弱い人達とともに歩み、重荷を負って苦しむ人の側に来て一緒に重荷を負うことだ。私達は1人で孤独に重荷を負っていたら悩んでしまうが、イエス様が重荷を一緒に負い、共に歩んでくれたら悩む必要はなくなり心に安らぎが得られのではないか。

ところで、私達が“イエス様のくびき”を負うとは、まず自分の重荷を一緒に負ってくださるイエス様が側におられることを信仰によって覚えることだ。私達自身がイエス様に支えられていることをまず知ることが必要なのである。次に“イエス様のくびき”を負うとは、そのイエス様から学ぶことだ。学ぶことは倣うことから始まるが、そのためには倣う対象を必要とするが、その対象とは側にいるイエス様である。みことばを通して側におられるイエス様に倣うことでイエス様から学ぶことができるのである。

「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい」パウロが言うようにイエス様のくびきを負う人に倣うことも、イエス様から学ぶことである。重いものを1人で運ぶとき、さっと側に来て一緒に重荷を負い、しかも見返りを求めない人がいたらずいぶん助かるが、イエス様に倣って“くびき”を負う人とはそういう人だ。それはこの世の価値観にはなじまないことだが、私達にはそういうことを遠慮なくできる場所が与えられている。それは教会だ。

教会はこの世の価値観とは異なりイエス様のように一緒に“くびき”を負い合う共同体だ。いろんな奉仕によってイエス様のくびきを負い、イエス様から学ぶことができる。イエス様のくびきを負うことは教会に限らず、この社会の様々な所にある。よくご存知の良いサマリヤ人のたとえ話と同じようなことが身近に起こったら、あなたはどうするだろうか?突然出された“くびき”は“イエス様のくびき”である。イエス様が語られたサマリヤ人に倣ってそれを負い、イエス様から学んでいこう。