マタイ11:20-24、1コリント11:1

“思い出せ、キリストのふかい嘆きを”  内田耕治師

 

町の名前は2つのグループに分けられる。コラジン、ベツサイダ、カぺナウムはガリラヤ湖の周辺にありイエス様が宣教をした町々だ。特にペテロの家があったカぺナウムはイエス様のガリラヤ伝道の根拠地だった。一方、ツロ、シドン、ソドムは旧約聖書によく出て来る町だ。ツロ、シドンは地中海に面した港町で莫大な富を築き上げたが、富のゆえに堕落した不信仰を象徴する町である。エゼキエル28章に描かれている。ソドムは死海の南と考えられるが、創世記でゴモラとともに神のさばきによって滅ぼされた背徳の町である。

ガリラヤ伝道は初めたくさんの人々が集まったが、癒されたらサヨナラだったようだ。だから“コラジン、ベツサイダは主の力あるわざを数多く見聞きしたのに悔い改めて神に立ち返らなかった。もし同じことをツロやシドンでしたら悔い改めたに違いない”と語り、親しい人達がかなりいたカぺナウムに対しても“天に上らず地に落ちる。もし同じみわざをソドムでしたらソドムは悔い改めて今も存在しただろう”と語って悔い改めなかった町々を激しく責めた。

イエス様の激しい言葉の背後には、何とか彼らを悔い改めに導き、彼らの滅びを食い止めようとしたのに出来なかったふかい嘆きがあり、それが「ああ(ウーアイ)」という呻きとなって現れた。彼らを愛するがゆえの嘆きである。「ツロやシドンやソドムのほうがさばきに耐えやすい」とか「カぺナウムがよみに落される」とか言いたくないことを言わざるを得なかったことも、ふかい嘆きの現われである。

このような嘆きはだれでも主を信じる者にある。ローマ9章「――私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」パウロに同じ嘆きがあり、書いてないが他の使徒達にも同じ嘆きがあった。今の私達のうちにも同じ嘆きがある。私達にも、身近にいくら祈っても声をかけても心を開かないし罪を認めない頑なな人達がたくさんいるからだ。

一般的に人々は嘆くことを避けて楽しく面白可笑しく生きることを願う。だれも不幸なことが起こり苦しみ悲しむことは望まない。けれども、イエス様と同じ嘆きを持てることは、実は私達にとって幸いなことだ。なぜならキリストと同じ思いになることでキリストに倣うことができるからだ。「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい」

もしその嘆きがほとんどなくて私達の思いが、この世の富を追い求めたり快楽を追い求めたりすることだけなら、それは困ったことだ。この世のものに誘惑されて道を踏み外し信仰生活が破綻する危険性があるからだ。もしそんな状態に陥っていたらキリストの嘆きを思い出そう。その嘆きのゆえに祈り、とりなし、みことばを伝えていこう。私達はキリストとともに人々の救いのために嘆くために立てられた者だから。