マタイ12:1-8

“真実の愛を喜ぶイエス様”  内田耕治師

 

アフガニスタンにタリバン政権が20年ぶりに復活した。神の教えを極端に解釈し、厳格に適用することで一部の女性を排除する恐れがあり女性の人権が守られるかどうかが危ぶまれている。ところで、タリバンほどではないにしてもイエス様の頃にも基本的には同じような問題があった。それは神が6日間で天地万物を創造し7日目に休んだことに因んで私達も7日目に仕事を休む安息日だ。その日に神を礼拝し、みことばを学び、体や心を休ませることはイエス様もパリサイ人も今の私達も同じ見解を持っている。

けれども、パリサイ人は安息日律法の「仕事をしてはならない」だけを独り歩きさせ、安息日に少しでも仕事をすると、神に対する不従順だと考え、その律法を民衆に厳格に守らせ、もしそれを破る人達がいたら、容赦なくさばいていた。たとえば、彼らは、イエス様の弟子達が他人の畑に入って麦を食べたことを見てイエス様を非難した。問題は弟子達が他人の畑のものを無断で食べたことではなく安息日に麦を摘む仕事をしたことにある。(参照、申命記23:24-25)パリサイ人は律法を人をさばくための基準として、さばくことが神に従うことと考えていた。

けれども、イエス様はそういう考え方自体が神のみこころに反するとして論争を挑んだ。まずダビデが食べた臨在のパンの話をした。臨在のパンは律法によると祭司だけが食べられるものだが、祭司アヒメレクは他に食べ物がなかったので腹ペコのダビデ達にそれを与えた。臨在のパンをそうしたのなら安息日に麦を摘んだ位でそんなに非難する必要はないではないかと問いかけたのである。次に安息日でも例外的に働く人達のことを取り上げた。それは安息日に宮で奉仕する祭司達のことだ。そう言われるとパリサイ人は返すことばがない。

さらに「ここに宮よりも大いなるものがあります」と言った。イエス様のことだが、宮とは神がおられる所だから、そんな宮よりも「大いなるもの」と言うことでイエス様は自分が神であることを暗に示された。「人の子は安息日の主です」とも言った。安息日のことはすべてイエス様の御手のうちにある。そのようなイエス様の弟子達が安息日に空腹を満たすために麦を摘んだ程度でとやかく言わなくてもいいはずだと問いかけた。では、なぜイエス様はそこまでして弟子達のしたことを弁護したのか?それは「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない」にある。これはホセア6:6の引用。「真実の愛」は「憐み」である。

他人の畑でも鎌や籠を使わず手で摘み取るだけなら作物を食べていい律法の目的は飢えた人達を少しでも助けること、つまり弱者に対する憐みだ。神はいけにえではなく憐みを喜ぶ。それが分かっていたなら弟子達をさばくことはなかったのにさばいた。それは神の喜ぶことが憐れみであることが分かっていない証拠だから、もう一度それをよく学びなさいと問いかけた。ところで、今の私達もイエス様の時代のパリサイ人と同じように弱者に対する憐みを忘れて“勝ち組、負け組”などと言ってさばきやすいところがある。それは私達の罪の1つの現われだ。だから私達も「わたしの喜びとするのは真実の愛、つまり憐みであり、いけにえではない」を心に留めていかなくては。