エレミヤ30章

“私たちの解放を告げる歌”  内田耕治師

 

29章までは簡単に言うと、神は堕落した南ユダ王国をさばくために、しもべとしてバビロンの王を立てられたから、南ユダ王国は潔くバビロンに降伏し捕囚の民となれば、70年が満ちた時、解放されるということである。30章もその線に沿って解放の希望を語るが、大きな違いがある。それはイスラエルの解放を語りながら、実は私達の解放を語っていることだ。

30:3「わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる」29章までは南ユダ王国の回復だけを語っていたが、30章ではずっと前にアッシリアに滅ぼされた北イスラエルも含めて、広く全イスラエルの回復を語る。新約聖書の光でこの箇所を読むならば、全イスラエルとは霊のイスラエルである私達キリスト者を表す。

これまでバビロンの“くびきやかせ”を負うことは神のみこころだと語ってきたが、30:8「わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない」“バビロン”は“あなた”に変わり、解放されて奴隷にされることはないと語る。30:10「あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救う」にもバビロンの名前は出て来ない。だから30章はバビロンからの解放ではなく、別の解放を表している。

30:9「彼らの王ダビデに仕える」ことで解放されるが、エレミヤよりも何百年も昔のダビデは時代錯誤であり歴史を越えている。「王ダビデ」とはだれか?メシヤはダビデの子孫。王ダビデはメシヤを表すのではないか?この箇所からは決められないが、その後の所を読むと分かる。解放とは“あなたの首のくびき”や“あなたのかせ”からの解放である。では、それらは何なのか?

30:14,15「あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために」29章までは堕落したイスラエルの国の罪を問題にしていたが、30章は「あなたの咎、あなたの罪」と1人1人の人間の罪とその罪が生み出す現象を問題にする。その現象とは癒されがたい心の傷、擁護する人がおらず恋人からも忘れられるなど見捨てられることだ。これらの問題から解放される道は、私達にとってイエスキリストである。だから「彼らの王ダビデ」はキリストだと言うことができる。

30:17-18これらは罪の支配下にあった私達が、キリストによって罪から解放されて、かつての傷は癒されて新しい人生を歩むことを表す。30:19-22これらはキリストを信じて新しい歩みを始めた私達が感謝し、喜んでいる様子を表す。これらはキリストの福音を最後まで拒否した者たちへのさばきを表す。以上、エレミヤはイスラエルの解放を語りながら、実は私達のイエスキリストによる罪からの解放を語っているのである。

私達は自分の罪を認め、ただイエスキリストを信じるだけで罪からの解放という凄い恵みが与えられた。素晴らしいことだが、その素晴らしさを、みことばに教えられ、確信を持ち、さらにその恵みをまだ知らない人達に伝えていこう。